ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~

第30話

 夏の終わりを急かすようにツクツクボウシがせわしなく鳴いている。

 まもなく八月が終わりを告げる。
 高校生までは、カレンダーの残り少ない余白を寂しく眺めたり、残った宿題にため息をついたりする時期だった。
 けれど、大学生の夏休みはまだ一か月近くも残っている。


 大学の貸し出し用ミーティングルームに足を踏み入れると、無機質なプレハブの冷気が全身を包み込んだ。

 ガラス越しに見える空はまだ青いが、雲の高さは少しだけ秋の気配を帯びているように見えた。

「美絵ー! ひっさしぶり!」
 バンッ、と勢いよく扉が開いたかと思うと、珍しくボブのパーマを後ろで一つに結っているいずみが、元気いっぱいに現れた。

 今日は、十月に控える文化祭に向けた、サークルのキックオフミーティングがある。
 いずみと、会わなかった期間の積もる話をしようと、開始時刻より三十分前に待ち合わせの約束をしていた。

 彼女は沖縄の実家に帰省していたから、見違えるほどこんがりと日焼けしていた。
「いずみ! おかえり。すごい焼けたね!」
「でしょー! 毎日海行ってたからね。はいこれ、定番お土産の紅芋タルト!」
 差し出された紙袋からは、さんさんと降り注ぐ太陽の匂いと、少し甘い南国の香りがふわりと漂ってきた。

 二人きりの静かなミーティングルームに、パイプ椅子を引きずる甲高い音が響く。

 隣り合って座ると、いずみは早速、目をキラキラさせて身を乗り出してきた。
「それで! メッセージでも言ってたけど、カフェのバイト受かったんだって? おめでとう!」
「うん、ありがとう。大学と家のちょうど中間くらいにあるところで、来週から働くよ」
「へえー! 美絵、今までずっと『バイトは大学生活に慣れてから』って言ってたのに。急にどうしたの?」
 いずみがニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「やっぱり、祥太郎くんの影響? 愛の力だねー!」
「ちょ……ちょっと。声大きいってば!」

 私は慌てて周囲を見回した。
 誰もいないとわかっていても、頬の温度が一気に急上昇していくのがわかる。

「愛だなんて、そんな大げさなものじゃ……」
 言葉を濁しながら、私は手元の冷たいペットボトルを、テーブルの上でコロコロと転がした。

『愛の力』と言われると気恥ずかしいが、彼の姿に背中を押されたのは紛れもない事実だった。

 河川敷のグラウンドで、泥だらけの少年たちに真剣に向き合っていた横顔。
 大学の授業、野球のコーチ、そして生活のためのファミレスのアルバイト。
 彼が当たり前のように日々をしっかりと生きている姿を見て、のんびりしている自分が少し恥ずかしくなったのだ。

 私も、彼の隣に並んでも恥ずかしくないように、少しでも自分の足で立ちたい。
 世界を広げたい。

 そんな私の心の変化を、鋭いいずみはしっかり見透かしているらしかった。

「この前の、野球チーム見に行ったエピソードも含めてさ、もう超いい感じじゃん。なんで付き合わないの?」

 直球すぎる質問に、私は息を詰まらせた。

「つ、付き合うって……私、正直、どう行動したらいいかわからなくて」
「ええ? 両思いの雰囲気プンプンなのに?」
「雰囲気だけじゃ、わからないよ……。みんな、付き合うきっかけってどんなの? どうやってそこに行き着くの?」

 真剣に尋ねると、いずみは腕を組んで天井を見上げた。

「うーん……それぞれすぎて一概には言えないけどさ。一般的には、一緒に遊びに行って、いい雰囲気になって、どっちかが告白して……って感じじゃない? 今の美絵たちなら、もう付き合っても不思議じゃないくらい、いい感じのステップにいると思うけど」

 ――『告白』。

 その二文字が頭をよぎった瞬間、心臓がドキドキドキとせわしないリズムを刻み始めた。

「……祥くんは、どう思ってるんだろう。私のこと、ただの中学の同級生として仲良くしてくれてるだけだったらどうしよう」

 弱音をこぼす私に、いずみは「うーん」と首を傾げながら上を向いた。

「祥太郎くんって、今まで好きな子とか、彼女とかいたことあるのかな? 中高の時とかさ」

 胃のあたりがギュッと、雑巾を絞られたように収縮した。

 彼が、他の女の子に特別な笑顔を向け、優しく触れ、愛しいと囁く。
 それを想像しただけで、指先からスッと血の気が引いていくような痛みが走る。

「……わかんない。それに、もし今、他に好きな人がいたら……」
「思い切って直接聞いてみる? 『好きな人いる?』って」
「む、無理無理! そんなの絶対聞けない!」

 ハードルが高すぎて、首がちぎれそうなほど横に振る私を見て、いずみはポンと手を打った。

「だよね。こんなときこそ、まさとんを召喚しよう! やっぱりあいつが祥太郎くんと一番仲いいし。合宿の夜、『協力する』って言ってたし!」

 正人くんの名前が出て、少しだけ安堵しかけた私だったが、いずみの次の言葉でその空気は一変した。

「……あのさ。美絵を焦らせたくないから、言おうかどうか迷ったんだけど」

 いずみの丸い目が、私の様子を伺いながら、真剣な色を帯びる。

「真希さんと同期の沙織さん。 私、学部が一緒で最近よく喋るんだけど……。沙織さんから『真希さんの希望で祥太郎くんも誘って、少人数の飲み会、何度かやってる』って聞いて」

「……そ、そうなんだ」
 空調の冷たい風が私の首筋を撫でて、ゾクリと粟立った。

「真希さんは祥太郎くんと二人で行きたがってるみたいなんだけど、祥太郎くんが『複数人でなら』って言ってるらしくて。でも、真希さんは本当に祥太郎くんのこと狙ってる可能性がある」

 ホワイトボードのマーカーのアルコール臭が、急に鼻をつく。

 真希さん。
 美人で、スタイルが良くて、野球に詳しくて、サバサバしていて。
 合宿のバスケの試合で、祥くんと完璧な連携を見せていたあの姿が、鮮明にフラッシュバックする。

「祥太郎くんの気持ちはわからないけど。大学生の恋って、高校までと違って急展開もありえるからさ。……美絵も、どんどん動いていったほうがいいかもしれない」

 いずみの言葉が、重く響く。
 とんでもない焦りが、足元から這い上がってきた。

 動くって、どうやって?
 アピールなんて、今まで一度もしたことがない。

 好意を伝えるという面では……彼の前に出ると顔は赤くなるし、声は上ずるし、意図せずとも私の気持ちはすでにダダ漏れになっている気がする。

『どんどん動く』って、具体的に何をしたらいいだろう。
 あとできることといえば……。

 ――『告白』。

 またしてもそのワードが浮かび上がり、今度は耳の奥でドクン、ドクン、とうるさいほど鼓動が鳴り始めた。

「……いずみは、告白したこと、ある?」
 震える声で尋ねると、彼女はあっけらかんと言った。
「高校の時に二回あるよ。一回は憧れのサッカー部の先輩で、玉砕。もう一回は仲のいいクラスメイトで、OKもらって一年くらい付き合ったかな」
「すごい……勇気、あるね」
「振られた時は三日くらい泣いたし、ご飯も喉を通らなかったけどね! でも、言わずに後悔するよりはマシかなって」

『言わずに後悔する』。

 祥くんの隣で、真希さんが笑っている姿を想像する。
 そんなの……絶対に嫌だ。

 自分でどうにかしなきゃいけないんだ。
 でも、どうやって……。
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