ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。

第32話

 ミーティングが終わり、僕と正人は大学の近くにある学生御用達の定食屋に入った。

 引き戸を開けると、醤油とごま油が焦げたような香ばしい匂いと、揚げ物を揚げるパチパチという軽快な音が食欲を刺激する。
 棚の上に設置してあるテレビからは夕方のニュース番組が流れ、部活帰りの学生たちの喧騒で店内は活気に満ちていた。

 プラスチックのコップに注がれたお冷を飲みながら、文化祭の出し物の話の続きになる。

「俺はさ、高校までやってた剣道部の道着にしようかなって」

 正人が、おしぼりで無造作に手を拭きながら言う。

「正人、剣道着似合いそうだよな」

「だろ? 祥太郎は? やっぱピッチャーの格好?」

「うーん、無難にそうなるかな。……あ、でも俺、自分のユニフォームこっちに持ってきてねーや。実家に置いたままだ」

「マジか。じゃあさ、同じクラスに野球部のタカシいるじゃん。あいつに借りればいいんじゃね?」

「なるほど、その手があったか。メッセージで聞いてみよ」

 注文してから五分も経たないうちに、僕の生姜焼き定食、正人の唐揚げ定食が順に運ばれてきた。

 それぞれ小さな声で「いただきます」と挨拶し、しばらくは箸を進める音だけが響いた。
 ホカホカのご飯から立ち上る湯気が、二人の間の空気を緩ませる。

「……ところでさ」

 唐揚げを頬張っていた正人が、箸を止めて僕を見た。

「祥太郎って、好きな人とかいんの?」

「……ブッ!」

 唐突な不意打ちの質問に、口に含んでいた米粒が思い切り気管に入った。
 激しくむせ返り、胸を叩きながら正人を睨みつける。

「ゴホッ……な、なんだよ急に!」

「いいじゃん、友達なんだからさ。たまには恋バナでもしようぜ」

 ニヤニヤしながら、悪びれる様子もなくコップの水を勧めてくる。

「いや……男同士で定食屋で恋バナなんて、するわけないだろ。気持ち悪いな」

 咳き込みながら拒否する僕に、正人は「つれないなー」と唇を尖らせた。

「じゃあ、俺から話す! 俺の赤裸々な過去を聞け!」

 勝手に宣言した正人は、少し遠くを見るような、真剣な目つきに変わった。

「高校二年の時さ。同じ剣道部の、一つ上の綺麗な先輩がいたんだよ」

 店の喧騒が少し遠のき、正人の声だけがやけにクリアに響く。

「絶対無理だと思ったんだけど……先輩が卒業しちゃうから、記念のつもりで思い切って告白したんだ。そしたら、まさかのオッケーでさ」

「……へえ」

「その後の春休みはもう、最高だったね。毎日メッセージして、何回もデートして。俺、完全に有頂天だった」

 その目が、当時の暖かな春の日差しを思い出すように細められる。

「でもさ……先輩が大学生になって、新しい生活が始まると、一気にすれ違い始めたんだよ。先輩はサークルや飲み会でエンジョイしてて、世界がどんどん広がっていく。一方の俺は、部活の最後の大会とか、受験勉強に追われててさ」

 正人は手元の箸を止めながら、自嘲気味に笑った。

「会うたびに、髪も服装もお洒落になるし、大学生になった彼女と比べて、自分がひどく子供っぽく感じたんだ。彼女の気持ちが、俺じゃなくて新しい大学生活に向き始めてるのも、手に取るようにわかって……それが居堪れなくて、結局、俺から別れを告げた」

 換気扇の回る重い音が、二人の間に落ちた沈黙を埋める。

「しょーがねえよな。俺も大学生になって、あの時の先輩の気持ちが少しわかった。大学、めちゃくちゃ楽しいもん。自由だし、こんなに世界が広がるのに、高校生となんてペースが合うわけない。……でもさ」

 正人は顔を上げ、僕をまっすぐに見た。

「今でも、その先輩を引きずってる自分がいるんだよね」

 普段の明るい正人からは想像もつかない、切実で、どこか痛みを伴う本音だった。

「……よし、俺がここまで赤裸々な告白をしたんだから、次はお前の番な!」

 湿っぽい空気を吹き飛ばすように、正人はバンッと机を叩いた。

「いや、言わないからな」

「おい、ズリーぞ! ……ってか、待てよ?」

 正人は目を細め、箸でこちらを指しながら、探偵のように僕の顔を覗き込んできた。

「お前、『話すことがない』じゃなくて『言わない』って言ったよな? それってつまり……好きな人くらいはいる、ってことだよな?」

「…………っ」

 痛いところを突かれ、言葉に詰まる。
 こいつの観察眼とコミュニケーション能力を甘く見ていた。

 観念して、短くため息をついた。

「……初めて明かすのは、本人がいいから。その後に、お前には教えるよ」

「うおおお! マジか! 祥太郎に好きな人!」

 身を乗り出して興奮する正人を、周囲の視線を気にして手で制する。

「わかった、誰かは今は聞かない! でも、これだけ教えて!」

 正人はなぜか祈るように両手を合わせ、恐る恐る口を開いた。

「……真希さんじゃないよな……?」

「は? 違うよ」

 即座に否定すると、正人は「っっほおおお」と肩の力を抜いて、大げさに安堵の息を吐き出した。

「よかったー! まじで安心したわ!」

 なぜそこで真希さんの名前が出てくるのか、そしてなぜそこまで安心するのか。
 その反応が謎だったが、特に追及はしなかった。
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