ふたつの弧が、重なるとき ~元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく~【完結】
第36話
(もうすぐかな?)
時計の針を見ると、いずみがここ、私のバイト先へ遊びにきてくれる予定の十五時を指していた。
その時。
カラン、と、ドアに付けられたベルが、軽やかな音を鳴らした。
約束の時間ぴったりに現れたいずみ。
彼女と目が合い、パッと顔を綻ばせた次の瞬間。
予想外の光景が視界に飛び込んできた。
――正人くんと、祥くんもいる。
「えっ、二人も……来てくれたの?」
制服姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
でもそれ以上に、彼に会えた嬉しさが勝る。
舞い上がってレジ打ちや注文伝達などでミスをしないよう、自分を必死で律した。
目の前に立った祥くんから、秋の涼やかな風の香り。
「……お疲れさま」
低くて、心地よい声。
「ありがと……来てくれて」
彼は、アイスコーヒーのレギュラーサイズを選んだ。
(ブラックなんだ……大人っぽいな)
実は、ブラックコーヒーの苦味はまだちょっと苦手な私。
いつも紅茶系か、カフェラテを頼んでしまう。
せっかくカフェで働き始めたのだから、ブラックの奥深さもわかるようになりたいな、と密かに決意する。
三人が注文した品を受け取り、奥のテーブル席へ向かうのを見届けた。
すると、エスプレッソマシンの周りを拭き上げていた柳《やなぎ》くんが、横から声をかけてきた。
「あの人たち、森の友達?」
「あ、うん。同じ大学で、同じサークルの……」
そう答えると、彼は前髪の隙間から「へえー」と面白がるような視線を投げてきた。
「あの男二人のどっちかが、森の彼氏?」
思わず手元のグラスを落としそうになる。
「な、何言ってんの!?」
声も上ずり、うまく流すことができない。
「いや。森、嬉しそうだし。なんとなく」
そんな私を見て、柳くんはケラケラと笑っていた。
◇
柳くんとの初対面は、二週間前。
私がここの面接に合格し、制服の受け取りと業務説明のために訪れていた時だった。
店長は、三十代前半くらいの、シュッとしているけれど柔らかい雰囲気の女性だ。
その店長から説明を受けている最中、『……はようございまーす』と、やや気怠げな声とともに、彼が出勤してきた。
『森さんと同い年の柳くん。もう働き始めて半年くらい経っていて、一通り覚えてるから何でも聞いてね』
『も……森です。よろしくお願いします』
緊張しながら頭を下げると、彼は『ういっす』と軽く返し、じっと顔を見てきた。
そして、やや面白がるような口調で言ったのだ。
『なんか……めちゃくちゃモテて困りそうな見た目してますね』
初対面で、なんて反応に困ることを言うんだろうと、私は目を丸くした。
店長が『コホン』とわざと咳払いをする。
『柳くん? たしかに森さんはとても可愛らしい顔してるけど、初対面で失礼のないようにね?』
それが、柳くんとの出会い。
私の周りにいる、穏やかで優しい祥くんや、明るくて気遣いのできる正人くんとは、まったく違うタイプ。
基本ぶっきらぼうで、ずけずけと物を言う。
ただ、同じ大学一年生で生活スタイルが似ているためか、シフトが被ることが多い。
業務の基本やレジの操作、コーヒーの淹れ方まで、なんだかんだ面倒見よく教えてくれるのだった。
◇
「お先に失礼します」
「うっす」
十七時。
朝からのシフトを終えた私は、夜までのシフトに入っている柳くんに挨拶をして、急いでバックヤードへと向かった。
ロッカーを開け、腰に巻いていたエプロンを外す。
扉に備え付けられた鏡で、自分の身だしなみを確認した。
(……軽く整えてから行こう)
着替えた時に乱れた髪を手櫛で整え、リップを薄く塗り直す。
胸を高鳴らせながら、小走りで三人の待つ席へと向かったのだった。
◇
夜風が、一日中立ちっぱなしで怠くなった足を癒す。
私の家までは、ここから歩いて二十分強くらい。
祥くんがまた「送っていくよ」と言ってくれた時、(やったー!)と心の中で跳びはねた。
駅に向かういずみと正人くんを見送り、住宅街へと続く坂道を、並んで歩き始める。
街灯が、二人の影を長く伸ばしては、また縮めていく。
「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」
その落ち着いた声は、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
バイトを頑張った何よりのご褒美のように感じられた。
薄暗い道に入った時、後ろからエンジン音が近づいてきた。
「もう少し、こっち来たら」
そう言って私の服の端を軽く引き、自分の前へと寄せてくれた。
守られているようなその気遣いに、胸の奥がくすぐったくなる。
車が通り過ぎたあと、後ろから柳くんのことを尋ねられた。
「ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」
その言葉に、彼との初対面での出来事を思い出し、思わず苦笑しながら「祥くんのほうが、全然大人っぽいよ」と否定した。
仕事では色々と教えてもらって感謝しかないけれど、もしサークルなどで出会っていたら、仲良くはなれなかったタイプだろう。
そんなことを考えながら顔を上げると、いつの間にかマンションのエントランスが見えていた。
(……着いちゃった)
幸せな時間が終わってしまう。
寂しさが、足元へ忍び寄ってくる。
(でも、名残惜しいからって、この前みたいに間違えて部屋に誘ったりしないように……!)
そう自分を戒める。
「…………」
ふと、彼の足音が止まったことに気づいた。
振り返ると、祥くんは俯いたまま、街灯の下で立ち尽くしている。
光に照らされた表情は、どこか神妙で、思い詰めているように見えた。
「祥くん……?」
「…………」
顔色も悪いかもしれない。
(もしかして、また熱が出たとかじゃないよね……?)
心配になり、下から覗き込みながら、その額にそっと手を伸ばそうとした。
「どうしたの? 気分、悪い……?」
その瞬間――。
スッ、と強い力で腕を引かれた。
「えっ……」
視界が暗転し、時間が完全に止まった。
次に感じたのは、頬に触れる柔らかなシャツの感触と、その奥から伝わってくる、力強さとあたたかさ。
微かに香る夜風の匂いと、彼自身の香り。
私は――自分が彼にすっぽりと抱きしめられていることに気づいた。
背中に回された大きな手のひらが、私を逃がさないように、でも壊さないように捉えている。
ドクン、ドクン、ドクン――。
耳の奥で、激しいリズムが鳴り響く。
(何、が……起きているの……?)
思考回路が完全にショートし、混乱と歓喜が混ざり合った感情の渦の中。
初めて知る熱に、ただ息を呑むことしかできなかった。
時計の針を見ると、いずみがここ、私のバイト先へ遊びにきてくれる予定の十五時を指していた。
その時。
カラン、と、ドアに付けられたベルが、軽やかな音を鳴らした。
約束の時間ぴったりに現れたいずみ。
彼女と目が合い、パッと顔を綻ばせた次の瞬間。
予想外の光景が視界に飛び込んできた。
――正人くんと、祥くんもいる。
「えっ、二人も……来てくれたの?」
制服姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
でもそれ以上に、彼に会えた嬉しさが勝る。
舞い上がってレジ打ちや注文伝達などでミスをしないよう、自分を必死で律した。
目の前に立った祥くんから、秋の涼やかな風の香り。
「……お疲れさま」
低くて、心地よい声。
「ありがと……来てくれて」
彼は、アイスコーヒーのレギュラーサイズを選んだ。
(ブラックなんだ……大人っぽいな)
実は、ブラックコーヒーの苦味はまだちょっと苦手な私。
いつも紅茶系か、カフェラテを頼んでしまう。
せっかくカフェで働き始めたのだから、ブラックの奥深さもわかるようになりたいな、と密かに決意する。
三人が注文した品を受け取り、奥のテーブル席へ向かうのを見届けた。
すると、エスプレッソマシンの周りを拭き上げていた柳《やなぎ》くんが、横から声をかけてきた。
「あの人たち、森の友達?」
「あ、うん。同じ大学で、同じサークルの……」
そう答えると、彼は前髪の隙間から「へえー」と面白がるような視線を投げてきた。
「あの男二人のどっちかが、森の彼氏?」
思わず手元のグラスを落としそうになる。
「な、何言ってんの!?」
声も上ずり、うまく流すことができない。
「いや。森、嬉しそうだし。なんとなく」
そんな私を見て、柳くんはケラケラと笑っていた。
◇
柳くんとの初対面は、二週間前。
私がここの面接に合格し、制服の受け取りと業務説明のために訪れていた時だった。
店長は、三十代前半くらいの、シュッとしているけれど柔らかい雰囲気の女性だ。
その店長から説明を受けている最中、『……はようございまーす』と、やや気怠げな声とともに、彼が出勤してきた。
『森さんと同い年の柳くん。もう働き始めて半年くらい経っていて、一通り覚えてるから何でも聞いてね』
『も……森です。よろしくお願いします』
緊張しながら頭を下げると、彼は『ういっす』と軽く返し、じっと顔を見てきた。
そして、やや面白がるような口調で言ったのだ。
『なんか……めちゃくちゃモテて困りそうな見た目してますね』
初対面で、なんて反応に困ることを言うんだろうと、私は目を丸くした。
店長が『コホン』とわざと咳払いをする。
『柳くん? たしかに森さんはとても可愛らしい顔してるけど、初対面で失礼のないようにね?』
それが、柳くんとの出会い。
私の周りにいる、穏やかで優しい祥くんや、明るくて気遣いのできる正人くんとは、まったく違うタイプ。
基本ぶっきらぼうで、ずけずけと物を言う。
ただ、同じ大学一年生で生活スタイルが似ているためか、シフトが被ることが多い。
業務の基本やレジの操作、コーヒーの淹れ方まで、なんだかんだ面倒見よく教えてくれるのだった。
◇
「お先に失礼します」
「うっす」
十七時。
朝からのシフトを終えた私は、夜までのシフトに入っている柳くんに挨拶をして、急いでバックヤードへと向かった。
ロッカーを開け、腰に巻いていたエプロンを外す。
扉に備え付けられた鏡で、自分の身だしなみを確認した。
(……軽く整えてから行こう)
着替えた時に乱れた髪を手櫛で整え、リップを薄く塗り直す。
胸を高鳴らせながら、小走りで三人の待つ席へと向かったのだった。
◇
夜風が、一日中立ちっぱなしで怠くなった足を癒す。
私の家までは、ここから歩いて二十分強くらい。
祥くんがまた「送っていくよ」と言ってくれた時、(やったー!)と心の中で跳びはねた。
駅に向かういずみと正人くんを見送り、住宅街へと続く坂道を、並んで歩き始める。
街灯が、二人の影を長く伸ばしては、また縮めていく。
「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」
その落ち着いた声は、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
バイトを頑張った何よりのご褒美のように感じられた。
薄暗い道に入った時、後ろからエンジン音が近づいてきた。
「もう少し、こっち来たら」
そう言って私の服の端を軽く引き、自分の前へと寄せてくれた。
守られているようなその気遣いに、胸の奥がくすぐったくなる。
車が通り過ぎたあと、後ろから柳くんのことを尋ねられた。
「ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」
その言葉に、彼との初対面での出来事を思い出し、思わず苦笑しながら「祥くんのほうが、全然大人っぽいよ」と否定した。
仕事では色々と教えてもらって感謝しかないけれど、もしサークルなどで出会っていたら、仲良くはなれなかったタイプだろう。
そんなことを考えながら顔を上げると、いつの間にかマンションのエントランスが見えていた。
(……着いちゃった)
幸せな時間が終わってしまう。
寂しさが、足元へ忍び寄ってくる。
(でも、名残惜しいからって、この前みたいに間違えて部屋に誘ったりしないように……!)
そう自分を戒める。
「…………」
ふと、彼の足音が止まったことに気づいた。
振り返ると、祥くんは俯いたまま、街灯の下で立ち尽くしている。
光に照らされた表情は、どこか神妙で、思い詰めているように見えた。
「祥くん……?」
「…………」
顔色も悪いかもしれない。
(もしかして、また熱が出たとかじゃないよね……?)
心配になり、下から覗き込みながら、その額にそっと手を伸ばそうとした。
「どうしたの? 気分、悪い……?」
その瞬間――。
スッ、と強い力で腕を引かれた。
「えっ……」
視界が暗転し、時間が完全に止まった。
次に感じたのは、頬に触れる柔らかなシャツの感触と、その奥から伝わってくる、力強さとあたたかさ。
微かに香る夜風の匂いと、彼自身の香り。
私は――自分が彼にすっぽりと抱きしめられていることに気づいた。
背中に回された大きな手のひらが、私を逃がさないように、でも壊さないように捉えている。
ドクン、ドクン、ドクン――。
耳の奥で、激しいリズムが鳴り響く。
(何、が……起きているの……?)
思考回路が完全にショートし、混乱と歓喜が混ざり合った感情の渦の中。
初めて知る熱に、ただ息を呑むことしかできなかった。