ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。
第3話
歓迎会がお開きになり、駅へ向かう道すがら。
室内の熱気で火照った身体を、夜になるとまだ肌寒い四月の風が心地よく冷ましていく。
彼女の細い肩が、二つくらい前の集団の隙間に見えた。
居酒屋の席では、ずっと緊張しっぱなしだったけれど、それでも少しだけ言葉を交わすことができた。
彼女は高校時代を県内の女子校で過ごし、この大学では史学部に進学したらしい。
史学部といえば、うちの大学の中でも偏差値が高い看板学部だ。
一方の僕は、体育学部に所属している。
中学時代に肩を壊した怪我の経験や、少年野球のコーチのアルバイトを通して、スポーツの治療や教育に興味を持っている。
そんなお互いの現状を知り、改めて信じられない気持ちになる。
僕たちは学部こそ違えど、大学に入学してからのこの一か月近くを、同じキャンパスで過ごしていたのだ。
広い学内のどこかで、気づかないうちにすれ違っていたかもしれないなんて、今日まで想像すらしていなかった。
どこからか漂う春特有の花の甘い香りに、アスファルトの乾いた空気が混ざり合う東京の夜。
彼女との再会を機に蘇る、焼け焦げるようなグラウンドの土の匂い。
◇
中学三年の、夏。
僕のピッチャー人生が、唐突に終わりを告げた日。
うだるような猛暑日だった。
スパイク越しにも伝わるようなマウンドの熱。陽炎がバッターボックスの景色をぐにゃりと歪ませていた。
汗が目に入り、ピントがぼやける。
準決勝、七回裏。
息を吸い込み、振りかぶって投げ込んだ直球が指先から離れた瞬間――右肩の奥深くで、何かが鈍い音を立てて千切れた感覚がした。
電流のような激痛が走り、視界が真っ白に明滅する。
気づいた時には、僕はマウンドの土に両膝をつき、力なく垂れ下がった右腕を抱えてうずくまっていた。
耳鳴りの奥で、審判のタイムをかける声や、チームメイトの駆け寄る足音が遠く響いていた。
『……残念ですが、投手として投げ続けるのは困難でしょう』
病院の無機質な診察室。
ツンとした消毒液の匂いが漂う空間で、医師の淡々とした宣告は、冷酷な死刑判決のように耳にこびりついた。
推薦が決まっていた甲子園常連の強豪校への道。
マウンドで見るはずだった夢。
仲間との約束。
積み上げてきたすべてが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
足元に深い穴が開き、その奥底へ真っ逆さまに落ちていくようだった。
それから何度目かの通院を終えた、あの日。
エアコンの効きすぎた総合病院の自動ドアを抜けた頃には、陽は大きく西へ傾いていた。
迎えに来ると言った母に『一人で帰る』と短いメッセージを送り、向かいにある小さな公園へ逃げ込んだ。
遊具は幼児用の小さなブランコだけ。
他には、塗装の剥げたベンチと錆びた水飲み場だけの、寂しげな公園。
まとわりつくような夏の湿気が、僕の呼吸を浅くする。
ベンチに座り込み、橙色の西日が長く伸ばしていく自分の影を、ただ呆然と見つめていた。
医師の宣告から数日が経っても、いまだ事実を受け入れられなくて、涙さえ出なかった。
空っぽになった胸の奥に、黒くて重い絶望だけが沈殿している。
『……あの』
ジリジリと鳴り響く蝉時雨を縫うように、頭上から柔らかな声が降ってきた。
『瀬川くん……だよね?』
反射的に顔を上げる。
逆光の中、沈みかけの夕陽を背負って立っていたのは――あの、森美絵だった。
いつもの、周囲を明るく照らすような屈託のない笑顔ではない。
少し眉を下げ、困ったような、けれどまっすぐな瞳で僕を見つめている。
(え……なんで、ここに……)
その小さな手には、湿布や薬が入った袋が握られていた。
彼女もどこかの怪我の治療でここに来ているのだろうか……。
『これ、間違えて二本買っちゃったんだけど……いる?』
そっと差し出されたのは、よく冷えていそうなサイダーだった。
缶の表面には無数の水滴がびっしりとつき、陽の光を反射してキラリと光っている。
『……え。あ……ありがとう』
混乱したまま、絞り出した声で礼を言い、受け取る。
ずっと遠くから見ていただけの彼女が突然現れて、僕の名前を呼び、ジュースをくれた。
目の前の出来事に、理解が追いつかなかった。
アルミ缶の鋭い冷たさが、熱を持った手のひらから指先へ、そして心臓へと、一気に伝わっていく。
彼女は僕の隣には座らず、少し距離を置いたフェンスに背中を預けた。
『…………』
『…………』
むせ返るような夏の草いきれの中、沈黙が流れる。
国道を走るトラックの重い走行音が、やけに遠くに聞こえた。
彼女は僕の怪我のことを知っているのだろうか。
中学生の噂は突風のように駆けめぐる。もう学校中に広まっているのかもしれない。
同情や哀れみなら……今は欲しくなかった。
けれど、彼女の口から紡がれたのは、そのどちらでもなかった。
『……いつも、応援してた』
ぽつりと落ちたその一言は、炭酸の泡が弾けるように静かで、鮮烈だった。
驚いて、ゆっくりと彼女を見る。
彼女は視線を僕の肩のあたりに向けたまま、独り言のように続けた。
『いつも……勇気もらってたよ』
その言葉が、干からびた砂漠のような僕の心に、じわりと、けれど確実に染み込んでいく。
――あの森美絵が? 僕から?
野球が好きで、当然楽しさはあったものの、常に重いプレッシャーを抱えながら立っていたマウンド。
それを、この高嶺の花はずっと見ていてくれたというのか。
血の滲む思いで投げてきたボールは、途中で夢断たれることになってしまった。
それでも……決して無駄ではなかったのか。
闘ってきた時間は、ちゃんと誰かに――しかも、他でもない彼女に届いていたなんて。
腐りかけていた心が、そのたった一言で、この世界に繋ぎ止められた気がした。
『……そっか』
喉の奥がツンと熱くなり、『ありがとう』が出てこなかった。
慌てて、まだ痛みの残る利き手とは反対の指で、不器用にサイダーのプルタブを引き上げた。
プシュッと軽快な音が、重苦しい空気を切り裂く。
一口含むと、炭酸の刺激と人工的な甘さが喉を刺し、こみ上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
あの日、あの夕暮れの公園で、彼女が声をかけてくれなかったら。
目を背けるように野球から離れ、腐ったまま大人になっていたかもしれない。
彼女は僕にとって、ただの憧れの美少女ではない。
絶望の暗闇で道を見失いかけたときに、小さな、けれど決して消えることのない灯りをくれた恩人なのだ。
室内の熱気で火照った身体を、夜になるとまだ肌寒い四月の風が心地よく冷ましていく。
彼女の細い肩が、二つくらい前の集団の隙間に見えた。
居酒屋の席では、ずっと緊張しっぱなしだったけれど、それでも少しだけ言葉を交わすことができた。
彼女は高校時代を県内の女子校で過ごし、この大学では史学部に進学したらしい。
史学部といえば、うちの大学の中でも偏差値が高い看板学部だ。
一方の僕は、体育学部に所属している。
中学時代に肩を壊した怪我の経験や、少年野球のコーチのアルバイトを通して、スポーツの治療や教育に興味を持っている。
そんなお互いの現状を知り、改めて信じられない気持ちになる。
僕たちは学部こそ違えど、大学に入学してからのこの一か月近くを、同じキャンパスで過ごしていたのだ。
広い学内のどこかで、気づかないうちにすれ違っていたかもしれないなんて、今日まで想像すらしていなかった。
どこからか漂う春特有の花の甘い香りに、アスファルトの乾いた空気が混ざり合う東京の夜。
彼女との再会を機に蘇る、焼け焦げるようなグラウンドの土の匂い。
◇
中学三年の、夏。
僕のピッチャー人生が、唐突に終わりを告げた日。
うだるような猛暑日だった。
スパイク越しにも伝わるようなマウンドの熱。陽炎がバッターボックスの景色をぐにゃりと歪ませていた。
汗が目に入り、ピントがぼやける。
準決勝、七回裏。
息を吸い込み、振りかぶって投げ込んだ直球が指先から離れた瞬間――右肩の奥深くで、何かが鈍い音を立てて千切れた感覚がした。
電流のような激痛が走り、視界が真っ白に明滅する。
気づいた時には、僕はマウンドの土に両膝をつき、力なく垂れ下がった右腕を抱えてうずくまっていた。
耳鳴りの奥で、審判のタイムをかける声や、チームメイトの駆け寄る足音が遠く響いていた。
『……残念ですが、投手として投げ続けるのは困難でしょう』
病院の無機質な診察室。
ツンとした消毒液の匂いが漂う空間で、医師の淡々とした宣告は、冷酷な死刑判決のように耳にこびりついた。
推薦が決まっていた甲子園常連の強豪校への道。
マウンドで見るはずだった夢。
仲間との約束。
積み上げてきたすべてが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
足元に深い穴が開き、その奥底へ真っ逆さまに落ちていくようだった。
それから何度目かの通院を終えた、あの日。
エアコンの効きすぎた総合病院の自動ドアを抜けた頃には、陽は大きく西へ傾いていた。
迎えに来ると言った母に『一人で帰る』と短いメッセージを送り、向かいにある小さな公園へ逃げ込んだ。
遊具は幼児用の小さなブランコだけ。
他には、塗装の剥げたベンチと錆びた水飲み場だけの、寂しげな公園。
まとわりつくような夏の湿気が、僕の呼吸を浅くする。
ベンチに座り込み、橙色の西日が長く伸ばしていく自分の影を、ただ呆然と見つめていた。
医師の宣告から数日が経っても、いまだ事実を受け入れられなくて、涙さえ出なかった。
空っぽになった胸の奥に、黒くて重い絶望だけが沈殿している。
『……あの』
ジリジリと鳴り響く蝉時雨を縫うように、頭上から柔らかな声が降ってきた。
『瀬川くん……だよね?』
反射的に顔を上げる。
逆光の中、沈みかけの夕陽を背負って立っていたのは――あの、森美絵だった。
いつもの、周囲を明るく照らすような屈託のない笑顔ではない。
少し眉を下げ、困ったような、けれどまっすぐな瞳で僕を見つめている。
(え……なんで、ここに……)
その小さな手には、湿布や薬が入った袋が握られていた。
彼女もどこかの怪我の治療でここに来ているのだろうか……。
『これ、間違えて二本買っちゃったんだけど……いる?』
そっと差し出されたのは、よく冷えていそうなサイダーだった。
缶の表面には無数の水滴がびっしりとつき、陽の光を反射してキラリと光っている。
『……え。あ……ありがとう』
混乱したまま、絞り出した声で礼を言い、受け取る。
ずっと遠くから見ていただけの彼女が突然現れて、僕の名前を呼び、ジュースをくれた。
目の前の出来事に、理解が追いつかなかった。
アルミ缶の鋭い冷たさが、熱を持った手のひらから指先へ、そして心臓へと、一気に伝わっていく。
彼女は僕の隣には座らず、少し距離を置いたフェンスに背中を預けた。
『…………』
『…………』
むせ返るような夏の草いきれの中、沈黙が流れる。
国道を走るトラックの重い走行音が、やけに遠くに聞こえた。
彼女は僕の怪我のことを知っているのだろうか。
中学生の噂は突風のように駆けめぐる。もう学校中に広まっているのかもしれない。
同情や哀れみなら……今は欲しくなかった。
けれど、彼女の口から紡がれたのは、そのどちらでもなかった。
『……いつも、応援してた』
ぽつりと落ちたその一言は、炭酸の泡が弾けるように静かで、鮮烈だった。
驚いて、ゆっくりと彼女を見る。
彼女は視線を僕の肩のあたりに向けたまま、独り言のように続けた。
『いつも……勇気もらってたよ』
その言葉が、干からびた砂漠のような僕の心に、じわりと、けれど確実に染み込んでいく。
――あの森美絵が? 僕から?
野球が好きで、当然楽しさはあったものの、常に重いプレッシャーを抱えながら立っていたマウンド。
それを、この高嶺の花はずっと見ていてくれたというのか。
血の滲む思いで投げてきたボールは、途中で夢断たれることになってしまった。
それでも……決して無駄ではなかったのか。
闘ってきた時間は、ちゃんと誰かに――しかも、他でもない彼女に届いていたなんて。
腐りかけていた心が、そのたった一言で、この世界に繋ぎ止められた気がした。
『……そっか』
喉の奥がツンと熱くなり、『ありがとう』が出てこなかった。
慌てて、まだ痛みの残る利き手とは反対の指で、不器用にサイダーのプルタブを引き上げた。
プシュッと軽快な音が、重苦しい空気を切り裂く。
一口含むと、炭酸の刺激と人工的な甘さが喉を刺し、こみ上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
あの日、あの夕暮れの公園で、彼女が声をかけてくれなかったら。
目を背けるように野球から離れ、腐ったまま大人になっていたかもしれない。
彼女は僕にとって、ただの憧れの美少女ではない。
絶望の暗闇で道を見失いかけたときに、小さな、けれど決して消えることのない灯りをくれた恩人なのだ。