ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~
「あ、美絵ちゃん! お疲れ〜」

 隣で筆を洗っていた真希さんのその声に、僕は心臓を鷲掴みにされたようにビクッと肩を揺らした。

 振り返ると、一週間ずっと頭から離れなかった彼女がそこに立っていた。

「あっ……お疲れ……」

 あの日、自分の嫉妬と衝動を抑えきれずに彼女を抱きしめ、気の利いた言葉一つ言えないまま逃げ帰ってしまった。
 その後、どう連絡していいかわからず、激しい自己嫌悪に陥ったまま一週間が過ぎてしまっていたのだ。

 目の前にいる彼女に、何を言えばいいのか。
 思考が空回りして、焦りが全身を巡る。

 今日会うことはわかっていたのだから、きちんと謝罪の言葉を決めておくべきだった……。
 無計画な自分を、心底恨む。

「……あのさ、ちょっと外で話さない……?」

 慌てて立ち上がり、周囲の目を気にして小声で誘ったつもりだった。

 しかし、美絵は僕と目を合わせることもなく、何も言わずにくるりと背を向けると、足早にその場を立ち去ってしまった。

「えっ……?」
 伸ばしかけた手が、空を切る。

「あれ? 美絵ちゃん、どうしたんだろ」
 真希さんも不思議そうに首を傾げている。

 美絵の小さな背中は、そのまま講義室のドアを出ていきそうだった。

「……っ、すいません。ちょっと外します」

 僕は筆を置き、急いで彼女の後を追いかけた。
 入り口の近くにいたいずみも、様子のおかしい彼女のことを、心配そうに目で追っていた。


 廊下に出ると、彼女はすでに階段を降り、人けのない裏庭の方へと向かっていた。

「……っ、美絵、ちょっと待って!」

 秋の冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる裏庭。
 彼女は足を止めず、振り向こうともしない。

 なんとか追いつき、ためらいながらも、その華奢な肩にそっと手をかけた。

 ゆっくりと振り向いた美絵の顔を見て、僕は息を呑んだ。

 今まで僕に向けたことのないような、深い悲しみと怒りを帯びた表情。
 その大きな琥珀色の瞳には、今にも溢れ落ちそうなほどいっぱいの涙が溜まっていたのだ。

「……なに?」
 震えている、冷たい声。

「えっと……この前、変なことして、ごめん」

 自分の語彙力のなさを呪いながら、なんとか謝罪の言葉を絞り出す。

「変なことって?」
「……付き合ってもないのに、あんなこと」

 僕の言葉に、美絵はきつく唇を噛んだ。

「……なんで、したの?」
「……自分でも、わからなくて」

 正直な気持ちだった。
 あの時、嫉妬に駆られて、ただ彼女を自分だけのものにしたいという衝動に負けた。
 それをどう言葉にしていいのか、わからなかった。

「……わからないなら、しないでよ」

 ポロリ、と。
 彼女の大きな瞳から、透明な雫がこぼれ落ちた。

 その瞬間、胸の奥を鋭い刃物でえぐられたような激しい痛みが走った。

 ――泣かせてしまった。

 僕の身勝手な行動が、あの優しい彼女をここまで傷つけ、涙を流させてしまったのだ。

 それほど嫌だったのかもしれない。
 嫌われて当然だ。
 当然の報いなのに、彼女の涙を前にすると、激しい自己嫌悪で息ができなくなる。

「ごめん……」
 情けない声しか出ない。
「謝らないでよ……」

 ポロポロと、堰を切ったように彼女の頬を涙が伝う。

 自分の大好きな子が、自分のせいで泣いている。
 その事実がたまらなく苦しくて、僕はすがるように口を開いた。

「本当にごめん……どうしたら止まる? 俺、なんでもするから……」

 切なさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうになる。

 たとえば……彼女が「もう二度と関わらないで」と言うのなら、そうする。
 僕にとっては耐え難いほど辛いことだけれど、彼女を泣かせたり苦しめるよりはマシだ。

 彼女は小さな両手で、交互に、流れる涙を必死に拭っていた。
 僕は思わず、その濡れた頬に手を伸ばす。
 彼女の涙を拭いたくて、人差し指でそっと、彼女の柔らかい頬に触れた。

 その瞬間。

 下を向いたままの美絵の唇から、微かに震える声が漏れた。


「……好き」


 ――耳を疑った。

 風の音に掻き消されそうなほど小さな、けれどはっきりと輪郭を持ったその言葉に、僕の思考は完全に停止した。
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