ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~
『好き』

 その震える二文字が耳の鼓膜を震わせた瞬間、僕の脳はありとあらゆる処理を強制終了した。

(…………)

 呼吸の仕方すら忘れ、完全にフリーズする。

 風が枯れ葉を転がす乾いた音だけが、不自然なほど大きく耳に響いていた。

 直前まで、彼女は深い悲しみと怒りの入り混じった表情で、ポロポロと涙を流していた。
 どちらかといえば、僕の身勝手な行動を責め、拒絶している状況だったはずだ。

『好き』って……。僕の聞き間違いだろうか。
 都合のいい幻聴か?

 でも、涙に濡れたその唇から紡がれた音は、たしかにそう聞こえた。

「……え? 今、なんて……」
「…………っ」
 掠れた声で問い返すと、美絵はハッとしたように涙を拭う手を止め、拗ねたようにプイッとそっぽを向いてしまった。

 赤く染まった耳たぶと、ツンと尖らせた横顔。

(……可愛い)

 思わず見惚れそうになる自分に(いや、今はそうじゃなくて)と心の中で激しくツッコミを入れる。

「ご、ごめん。今、『好き』って聞こえた気がしたんだけど……」

 恐る恐る尋ねると――。
 彼女は横を向いたまま、小さな人差し指で僕のことを指差した。

(…………え……)

「……美絵、俺を、好きなの……?」

「……好きじゃなかったら」
 彼女は僕を指差したまま、震えながらも少し怒ったような声で言った。

「好きじゃなかったら、名前で呼んでとか、わざわざ野球観に行きたいとか……言うわけないじゃん……ばか」

 彼女が見せてきた、照れた顔、無防備に甘える顔、恥ずかしそうに俯く顔。
 これまでの彼女の言葉や行動のピースが、音を立ててひとつひとつ完璧にはまっていく。

 友達としてではなく。同郷の同級生としてでもなく。
 異性として、僕を――。

 脳がやっと状況を理解できたその瞬間。
 足元から頭のてっぺんまで、雷に打たれたような強烈な痺れが駆け抜けた。

 勘違いでもなく、夢でもないのか?
 あの彼女が、僕を。
 僕のことが……好きなのか。

 歓喜、安堵、そして勝手に絶望して彼女を泣かせてしまった自分自身の愚かさへの猛烈な反省。
 ありとあらゆる感情がごちゃ混ぜになって押し寄せ、視界がぐらりと揺れた。

 何も言わず、ただ立ち尽くす僕の様子をチラリとうかがった美絵が「…………!」と目を丸くして驚いた。

「祥くん……顔、真っ赤……」

「……見ないで」
 僕は慌てて右腕で自分の顔を覆い隠し、そっぽを向いた。
 今、自分がどんなだらしない、もしくは興奮した顔をしているのか想像もつかない。

「…………」
「え、ちょっと……」
 彼女が、僕の顔を覗き込もうと、そーっと僕の腕をどかそうと指をかけてくる。
「……ちょっと!」
 これ以上見られたくなくて、僕は咄嗟にその小さな手首を掴んだ。

 その拍子に、正面からバチリと視線が絡み合う。

 少しだけひんやりとした彼女の体温。
 対照的に、火を噴きそうなほど熱い僕の顔。

 涙に濡れた琥珀色の瞳と至近距離で見つめ合い、胸の奥が痛いくらいに鳴る。

(あ……言わなきゃ)

 僕が何かを伝えようとしていることを察したのか、彼女の瞳が少しだけ不安そうに揺らぐ。
 彼女の手を優しく降ろし、真っ直ぐにその目を見つめて、深く息を吸い込んだ。

「俺も、好き。……すごく、好き」

 秋の冷たい空気に溶かすように、ずっと閉じ込めていた熱のすべてを言葉に乗せて伝えた。
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