ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~
「お疲れさまです」
午後十時、ファミレスのバイトを終えて、裏口の重い鉄扉を押し開ける。
「……ふう」
今日は朝から夕方まで大学にいて、そこから急いで直接にバイトに向かい、一日中フル稼働だった。
疲れを解放するように、大きく息を吐き出す。
昼間はまだ暑い日もあるが、夜は秋らしい肌寒さになっている。
見上げた東京の夜空は、街のネオンに反射してどこか白みがかっている。
それでも、目を凝らすとビルとビルの隙間に、遠慮がちに瞬く星がいくつか見えた。
ズボンのポケットからスマホを取り出す。
画面を点灯させると、暗い裏路地に青白い光が浮かび上がった。
『バイトお疲れさま』
美絵からのメッセージだ。
労いの言葉とともに、可愛らしいウサギがお茶を飲んでいるスタンプが添えられている。
その短い文字を見るだけで、重かった足取りが嘘のように軽くなるのを感じた。
(……今日、全然話せなかったな)
帰路につきながら、今日一日の出来事を振り返る。
午後にサークルの作業部屋で顔を合わせたが、作業も佳境に入っておりそれなりに慌ただしく、周りに人もたくさんいたことで、ゆっくりと話をすることはできなかった。
美絵は、どう感じただろうか。
『今終わったよ。ありがとう』
そう返信しようとして、ふと、親指の動きを止めた。
文字だけのやり取りじゃ、なんだか物足りない。
……彼女の声が聞きたい。
迷いながらも、少し汗ばんだ指先で、思い切って通話ボタンをタップした。
――プルルル、プルルル。
……夜の十時過ぎにいきなりの電話は、迷惑だろうか。
無機質なコール音が、夜の静寂に響く。
三回、五回、八回……。
出ない。
お風呂に入っているのか、それとももう寝てしまったのか。
十コール目を数え、諦めて通話終了ボタンを押そうとした、その時だった。
『はいっ?! もしもし?!』
ガチャッという物音と共に、ひどく慌てたような彼女の声が鼓膜を叩いた。
「……なんで疑問形?」
予想外の第一声に、思わずふっと笑いがこぼれる。
『だって……! 電話くるなんて思ってなくて。今、お皿洗ってて……スマホが鳴ってるのに気づいて、めちゃくちゃ慌てて手拭いて出たんだよ』
電話の向こうで、彼女がバタバタと身振り手振りで説明している姿が目に浮かぶ。
「ごめん、急に」
『ううん。びっくりしただけ』
洗い物してたのか。
何でもない日常の一コマすら愛おしくて、口元が勝手に緩んでしまう。
『……電話するの、初めてだね』
少し呼吸を整えた美絵の声が、トーンを落として耳元に届く。
スマホのスピーカーを通した彼女の声は、直接話す時の透き通った音色よりも、ほんの少しだけハスキーに聞こえる。
その響きで、耳の奥が甘く痺れるような感覚に陥る。
「……うん。今日、ゆっくり話せなかったから……」
続きの「声が聞きたくて」は言葉にできなかったが、彼女には伝わっている気がした。
『……うん。嬉しい』
静かな、けれど熱を帯びた声。
夜風が、二人の間の短い沈黙を心地よく埋めていく。
『あのね』
やがて、美絵が少しだけ改まったような、頑張って勇気を振り絞るような声で口を開いた。
『……今度、予定合う日に、一緒に出かけたいな』
控えめな、けれど確かなお誘い。
僕から誘おうと思っていたのに、彼女の方から希望を伝えてくれたことが嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「もちろん。……どこがいい?」
『うーん……悩むなあ。遊園地もいいし、水族館も行ってみたいし、あと、美味しいカフェ巡りも……』
「うん」
あっちもいいな、こっちもいいなと、楽しそうに思いを巡らせる彼女の声は、聞いているだけで、世界中のどんな音楽よりも心地よい。
『あ、好き勝手言っちゃってごめん』
ハッとしたように美絵が謝るが、僕は首を横に振った。
「いや、希望教えてもらえると、嬉しいよ」
『ほんと? へへ。じゃあ、ゆっくり考えよっと』
彼女の嬉しそうな笑い声を聞きながら、僕は、言葉にする決心をした。
「……あのさ」
『うん?』
「俺……誰かと付き合うの、これが初めてだから」
夜道で一人、スマホに向かって告白するのは、面と向かって言うのとはまた違った気恥ずかしさがある。
それでも、誠実でありたかった。
「その……してほしいこととか、逆に、してほしくないこととか、全然わかってないと思う。だから、もし至らぬ点とかあったら……我慢しないでなんでも言ってください」
最後の方は、少し硬い、面接のような口調になってしまった。
けれど、電話の向こうの彼女は、「ふふ」と優しく笑ってくれた。
『……うん。わかった! なんでも話すね。祥ちゃんも、なんでも話してね』
「ああ」
気がつけば、見慣れたアパートの外階段の下まで辿り着いていた。
「じゃあ……家に着いたから、今日はこの辺で。おやすみ」
『うん……おやすみ』
通話を切り、スマホをポケットにしまう。
冷たい鉄の階段を上りながら、僕はまた空を見上げてみた。
さっきよりも目が慣れたのか、それとも空気が澄んできたのか、東京の明るい夜空に、先ほどよりも多くの星が瞬いているように見えた。
午後十時、ファミレスのバイトを終えて、裏口の重い鉄扉を押し開ける。
「……ふう」
今日は朝から夕方まで大学にいて、そこから急いで直接にバイトに向かい、一日中フル稼働だった。
疲れを解放するように、大きく息を吐き出す。
昼間はまだ暑い日もあるが、夜は秋らしい肌寒さになっている。
見上げた東京の夜空は、街のネオンに反射してどこか白みがかっている。
それでも、目を凝らすとビルとビルの隙間に、遠慮がちに瞬く星がいくつか見えた。
ズボンのポケットからスマホを取り出す。
画面を点灯させると、暗い裏路地に青白い光が浮かび上がった。
『バイトお疲れさま』
美絵からのメッセージだ。
労いの言葉とともに、可愛らしいウサギがお茶を飲んでいるスタンプが添えられている。
その短い文字を見るだけで、重かった足取りが嘘のように軽くなるのを感じた。
(……今日、全然話せなかったな)
帰路につきながら、今日一日の出来事を振り返る。
午後にサークルの作業部屋で顔を合わせたが、作業も佳境に入っておりそれなりに慌ただしく、周りに人もたくさんいたことで、ゆっくりと話をすることはできなかった。
美絵は、どう感じただろうか。
『今終わったよ。ありがとう』
そう返信しようとして、ふと、親指の動きを止めた。
文字だけのやり取りじゃ、なんだか物足りない。
……彼女の声が聞きたい。
迷いながらも、少し汗ばんだ指先で、思い切って通話ボタンをタップした。
――プルルル、プルルル。
……夜の十時過ぎにいきなりの電話は、迷惑だろうか。
無機質なコール音が、夜の静寂に響く。
三回、五回、八回……。
出ない。
お風呂に入っているのか、それとももう寝てしまったのか。
十コール目を数え、諦めて通話終了ボタンを押そうとした、その時だった。
『はいっ?! もしもし?!』
ガチャッという物音と共に、ひどく慌てたような彼女の声が鼓膜を叩いた。
「……なんで疑問形?」
予想外の第一声に、思わずふっと笑いがこぼれる。
『だって……! 電話くるなんて思ってなくて。今、お皿洗ってて……スマホが鳴ってるのに気づいて、めちゃくちゃ慌てて手拭いて出たんだよ』
電話の向こうで、彼女がバタバタと身振り手振りで説明している姿が目に浮かぶ。
「ごめん、急に」
『ううん。びっくりしただけ』
洗い物してたのか。
何でもない日常の一コマすら愛おしくて、口元が勝手に緩んでしまう。
『……電話するの、初めてだね』
少し呼吸を整えた美絵の声が、トーンを落として耳元に届く。
スマホのスピーカーを通した彼女の声は、直接話す時の透き通った音色よりも、ほんの少しだけハスキーに聞こえる。
その響きで、耳の奥が甘く痺れるような感覚に陥る。
「……うん。今日、ゆっくり話せなかったから……」
続きの「声が聞きたくて」は言葉にできなかったが、彼女には伝わっている気がした。
『……うん。嬉しい』
静かな、けれど熱を帯びた声。
夜風が、二人の間の短い沈黙を心地よく埋めていく。
『あのね』
やがて、美絵が少しだけ改まったような、頑張って勇気を振り絞るような声で口を開いた。
『……今度、予定合う日に、一緒に出かけたいな』
控えめな、けれど確かなお誘い。
僕から誘おうと思っていたのに、彼女の方から希望を伝えてくれたことが嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「もちろん。……どこがいい?」
『うーん……悩むなあ。遊園地もいいし、水族館も行ってみたいし、あと、美味しいカフェ巡りも……』
「うん」
あっちもいいな、こっちもいいなと、楽しそうに思いを巡らせる彼女の声は、聞いているだけで、世界中のどんな音楽よりも心地よい。
『あ、好き勝手言っちゃってごめん』
ハッとしたように美絵が謝るが、僕は首を横に振った。
「いや、希望教えてもらえると、嬉しいよ」
『ほんと? へへ。じゃあ、ゆっくり考えよっと』
彼女の嬉しそうな笑い声を聞きながら、僕は、言葉にする決心をした。
「……あのさ」
『うん?』
「俺……誰かと付き合うの、これが初めてだから」
夜道で一人、スマホに向かって告白するのは、面と向かって言うのとはまた違った気恥ずかしさがある。
それでも、誠実でありたかった。
「その……してほしいこととか、逆に、してほしくないこととか、全然わかってないと思う。だから、もし至らぬ点とかあったら……我慢しないでなんでも言ってください」
最後の方は、少し硬い、面接のような口調になってしまった。
けれど、電話の向こうの彼女は、「ふふ」と優しく笑ってくれた。
『……うん。わかった! なんでも話すね。祥ちゃんも、なんでも話してね』
「ああ」
気がつけば、見慣れたアパートの外階段の下まで辿り着いていた。
「じゃあ……家に着いたから、今日はこの辺で。おやすみ」
『うん……おやすみ』
通話を切り、スマホをポケットにしまう。
冷たい鉄の階段を上りながら、僕はまた空を見上げてみた。
さっきよりも目が慣れたのか、それとも空気が澄んできたのか、東京の明るい夜空に、先ほどよりも多くの星が瞬いているように見えた。