ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。
 ◇

「お疲れさまです」

 午後十時、ファミレスのバイトを終えて、裏口の重い鉄扉を押し開ける。

「……ふう」

 朝から夕方まで大学にいて、そこから急いで直接バイトに向かい、一日中フル稼働だった。
 疲れを解放するように、大きく息を吐き出す。

 昼間はまだ暑い日もあるが、夜は秋らしい肌寒さとなっている。
 見上げた東京の夜空は、街のネオンに反射してどこか白みがかっている。
 それでも目を凝らすと、ビルとビルの隙間に、遠慮がちに瞬く星がいくつか見えた。

 ズボンのポケットからスマホを取り出す。
 画面を点灯させると、暗い裏路地に青白い光が浮かび上がった。

『バイトお疲れさま』

 美絵からのメッセージだ。
 労いの言葉とともに、ウサギがお茶を飲んでいる可愛らしいスタンプが添えられている。
 それを見るだけで、足取りが嘘のように軽くなるのを感じた。

(……今日、全然話せなかったな)

 帰路につきながら、今日一日の出来事を振り返る。
 午後にサークルの作業部屋で顔を合わせたが、作業も佳境に入っておりそれなりに慌ただしく、周りに人もたくさんいたことで、ゆっくりと話をすることはできなかった。

 美絵は、どう感じただろうか。

『今終わったよ。ありがとう』

 そう送ろうとして、ふと、親指の動きを止めた。

 文字だけのやり取りじゃ、なんだか物足りない。
 声が、聞きたい。

 迷いながらも、少し汗ばんだ指先で、思い切って通話ボタンをタップした。

 ――プルルル、プルルル。

 夜の十時過ぎ。いきなりの電話は……迷惑だろうか。

 無機質なコール音が、風に晒された耳元で響く。
 三回、五回、八回……。

 出ない。

 お風呂に入っているのか、それとももう寝てしまったのか。

 十コール目を数え、諦めて通話終了ボタンを押そうとした、その時だった。

『はいっ!? もしもし!?』

 ガチャッという音と共に、ひどく慌てたような美絵の声が聞こえた。

「……なんで疑問形?」

 予想外の第一声に、思わずふっと笑いがこぼれる。

『だって……! 電話くれるなんて思ってなくて。今、お皿洗ってて……スマホが鳴ってるのに気がついて、めちゃくちゃ慌てて手拭いて出たんだよ』

 電話の向こうで、バタバタと身振り手振りで説明している彼女が目に浮かぶ。

「ごめん、急に」

『ううん。びっくりしただけ』

 洗い物してたのか。
 何でもない日常の一コマすら愛おしくて、口元が勝手に緩んでしまう。

『……電話するの、初めてだね』

 少し呼吸を整えた美絵の声が、耳に届く。

 スマホのスピーカーを通したその声は、直接話す時の透き通った音よりも、ほんの少しだけハスキーに聞こえる。
 その響きで、耳の奥が甘く痺れるような感覚に陥る。

「……うん。今日、ゆっくり話せなかったから……」

 続きの「声が聞きたくて」は言葉にできなかったが、彼女には伝わっている気がした。

『……うん。嬉しい』

 静かな、けれど熱を帯びた声。

「…………」
『…………』

 二人の間の短い沈黙を、夜風が心地よく埋めていく。

 やがて、美絵が少し改まったような声で『……あのね』と切り出した。

『今度、予定が合う日に、一緒に出かけたいな』

 控えめな、けれど確かなお誘い。
 僕から誘おうと思っていたのに、彼女の方から希望を伝えてくれたことが嬉しくて、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。

「もちろん。……どこがいい?」

『うーん……悩むなあ。遊園地もいいし、水族館も行ってみたいし。あと、美味しいカフェ巡りも……』

「うん」

 あっちもいいな、こっちもいいなと、楽しそうに思いを巡らせる声は、聞いているだけで、世界中のどんな音楽よりも心地よい。

『あ、好き勝手言っちゃってごめん』

 美絵はハッとしたように謝るが、僕は首を横に振った。

「いや、希望教えてもらえると、嬉しいよ」

『ほんと? へへ。じゃあ、ゆっくり考えよっと』

 その嬉しそうな声を聞いて、僕は、言葉にする決心をした。

「……あのさ」

『うん?』

「俺……誰かと付き合うの、これが初めてだから」

 夜道で一人、スマホに向かって告白するのは、面と向かって言うのとはまた違った気恥ずかしさがある。
 それでも、伝えたかった。

「その……してほしいこととか、逆に、してほしくないこととか、全然わかってないと思う。だから、もし至らぬ点とかあったら……我慢しないでなんでも言ってください」

 最後の方は、少し硬い、面接のような口調になってしまった。
 けれど、電話の向こうの美絵は「ふふ」と優しく笑ってくれた。

『……うん。わかった! なんでも話すね。祥ちゃんも、なんでも話してね』

「うん」

 気がつけば、見慣れたアパートの外階段の下まで辿り着いていた。

「じゃあ……家に着いたから、今日はこの辺で。おやすみ」

『うん……おやすみ』

 通話を切り、スマホをポケットにしまう。

 冷たい鉄の階段を上りながら、僕はまた空を見上げてみた。

 さっきよりも目が慣れたのか、それとも空気が澄んできたのか、東京の明るい夜空に、先ほどよりも多くの星が瞬いているように見えた。
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