ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。

第53話

「……お先に失礼します!」

 そそくさとタイムカードを押したあと、カウンター以外の電気が消され薄暗くなった店内で、レジ点検をしている店長へ挨拶する。

「はーい! お疲れさま」

 笑顔を返してくれた店長に会釈をすると、バックルームに駆け込み、そのまま奥の狭い更衣室へ飛び込んだ。

 急いでエプロンを解き、ブラウスのボタンを弾くように外す。
 更衣室には、店内から流れ込んできた焙煎された珈琲豆の深い香りと、キャラメルシロップの甘ったるい匂いが充満している。
 それらが染み付いた制服をロッカーへ押し込み、私服の薄いニットへと慌てて腕を通した。

「なんだ? 彼氏でも迎えにきてんのか?」

 光の速さで更衣室から出た瞬間、かけられたその声に、肩がビクッと跳ねる。
 同じ遅番シフトだった柳くんが、パイプ椅子に浅く腰掛けながら、呆れたような、それでいてどこか面白がるような目で私を見ていた。

「おっ……お疲れ様でした!」

 完全に図星を突かれた私は、熱を持った頬を隠すようにトートバッグを肩にかけ、逃げるようにバックルームを飛び出した。

 バタン、と勢いよく閉めた扉の向こうから、「わかりやすっ」という柳くんの低い笑い声が聞こえてきて、さらに足が速くなる。


 裏口から外へ出ると、十一月下旬の冷気が、火照った顔を少しだけ冷ましてくれた。
 はあっ、と吐き出した息が、夜の輪郭に溶けていく。

 視線を動かすとすぐに、オレンジ色の街灯の真下に、愛しい姿を見つけた。
 厚手のネイビーのジャケットを羽織っている。

 小走りで駆け寄ると、コンクリートを踏む音に気づいた彼が顔を上げる。

 寒さのせいか、やや赤くなった鼻先。
 いつもの穏やかな瞳が、私を捉えた。

「お疲れ」

「ごめんね、わざわざ迎えにきてもらって……! 寒かったよね!?」

「いや、全然」

 祥ちゃんの吐く息が、優しい声とともに夜風に流れる。
 彼の視線が、私の肩に掛かっている大きめのトートバッグへと移った。

「それ、重くない? 持つよ」

 ためらいなくスッと伸ばされた手を、慌てて遮った。

「だ、大丈夫! 大きいだけで、軽いから!」

「え……そう? 」

 膨れたバッグの中には、来る途中のコンビニで買ったお菓子やジュースの他に、ちょっとした遊びグッズ、そして――綺麗にラッピングされた箱が隠されている。
 明日、彼の誕生日に渡すはずのプレゼント。
 明日のデートの待ち合わせに持って行けばいいものを、わざわざ今夜持ってきた理由はひとつだ。

(もし……もし、今日このまま、明日まで一緒にいることになったら……なんて)

 そんな下心というか、はち切れんばかりの期待がここに詰まっているなんて知られたら、恥ずかしくて顔から火が出てしまう。

 この先のことを、まだ何もわかっていない私。
 正直、ほんの少しだけ不安や緊張はある。
 けれどそれ以上に、彼との『向こう側』を知りたくなっていた。
 もっと彼を大好きになりたいし、彼にも、私のことをもっと大好きになってほしい。

 祥ちゃんはいつも、私が歩きやすいスピードで歩いてくれる。
 けれど今日は私の方が、彼の歩幅にせっせと合わせていた。
 足早に夜道を歩きながら、必死に平常心を装おうとバイトの話をした。

「今日ね、クリスマス限定のラテがすごく出て……それでね……」

 口調も、自分でもわかるくらい速くなっている。
 遅番の後、もう遅い時間に彼の家へ遊びに行くという初めてのシチュエーション。
 さっきからずっと、気持ちが上ずったままだ。
< 94 / 183 >

この作品をシェア

pagetop