恋は手のひらの上で
••┈┈┈┈••

しばらくして、車が停まる。
ゆっくり目を開けると、窓の外に見慣れた街灯が見えた。


───あ、私の家だ。
マンションの前。

そう思った瞬間、隣から声がした。

「西野さん、着きました」

返事をしたつもりなのに、体がまったく動かない。

エンジンが切れる音。
ドアが開く音。
夜の冷たい空気が流れ込んできた。


「立てますか?」

立てる。…たぶん。

そう思うのに、足がうまく前に出ない。
腕をそっと支えられる。

「ゆっくりで大丈夫です」

一歩。
もう一歩。

そのとき、目の前にガラス扉が見えた。
マンションのエントランス。


─────あ。
鍵。オートロックだ。


「西野さん?」

椎名さんが少し間を置いて言う。

「部屋番号、分かりますか?」

聞こえているのに、声が出ない。
頭の中では数字が浮かんでいるのに、それを言葉にできない。

ごめんなさい、と何度も心の中で謝る。

沈黙が落ちた。
椎名さんが一度だけマンションを見上げる。

小さく息を吐く音。
ため息とは違う、整えるような。


「…すみません」

腕をいま一度支え直される。

「少しだけ、移動します」

再び車のシートに体を預けた瞬間、意識が遠くなる。
さっきまで握っていたはずの袖は、もう指先から離れていた。

ドアが閉まる音。
エンジンがかかる。


そして車が、静かに走り出した。
そこで、私の意識は途絶えた。
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