恋は手のひらの上で
並んで廊下を歩く。
周りには東央ヘルスケアの社員が行き交っている。

意識して背筋を伸ばしていると、

「明日の役員は三人です」

と、椎名さんが静かに話し出した。

「研究開発と営業、それから取締役です」

「…強そうですね」

「まあ、強いです」

小さくうなずく。

「なので、微粒子ポリマーのところは必ず突っ込まれます」

私は明日のことを考えて、きゅっと指先に力を入れた。
もう、緊張している。
今からこんなんじゃ、だめだ。


深呼吸していると、唐突に椎名さんがふっと声を落とした。

「西野さん」

私は何も考えず、顔を向ける。
椎名さんが、ほんの少しかがんでいた。

周りに聞こえないように、私だけに届く距離で。

「昨日、すみませんでした」

「…え?」

変な声で聞き返す。
ほんの一瞬、間が空く。

「返信、できなくて」

思ったより近い距離で言われ、固まる。
スーツの布の匂いと、ほんの少しコーヒーの香り。

心臓が一回、大きく鳴る。

「だ、大丈夫です。既読はついていたので」

つい一緒になって声をひそめるも、困惑が声に出る。

椎名さんは私の様子を見ているはずなのに、妙に落ち込んでいた。

「本当はすぐ返すつもりだったのに、寝落ちしちゃいました」

「疲れてるんですよ、絶対に」

だって、週末だって私の看病につきっきりでいてくれた。

「ありがとうございます。あの日、椎名さんがいなかったら、私たぶん…まだ寝込んでます」

そう言うと、彼は嬉しそうに笑った。

「それは困ります、俺が」


椎名さんはすぐに体を起こした。
何事もなかったみたいに。

「会議室はこちらです」

そう言ってドアを開ける。


私は一瞬だけ立ち止まる。
“それは困ります、俺が”?

涼しい顔に戻っている彼の顔を見上げて、なんとなく悔しくなってしまった。
私の揺れる感情と、彼の揺れない水面みたいな感情。

…ほんとに、この人は。
ずるいんだから。



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