恋は手のひらの上で
「一点、よろしいでしょうか」

椎名さんの声だった。

それまで‪隣で黙っていた彼が口を開いた瞬間、会議室の空気がわずかに動いた。


椎名さんは落ち着いた動作で資料をめくった。

「スクリーンをご覧いただけますか?」

彼はスクリーンへ役員たちの視線を誘導する。
それと同時に、“私のことは誰も見なくなった”という安堵が広がる。


「当社の試験結果です。今回の処方ですが、我々の方でも再現試験を行っています」

今度は役員たちの視線が、椎名さんへ移る。

「結果は、ほぼ同等です」

淡々と彼は穏やかな声で続けた。

「PM2.5相当粒子に対して約三十パーセントの付着低減。これは、日常的な環境ストレス対策としては十分に意味のある数値です」

役員の一人がすぐに口を挟もうとする。

「しかし、それだけでは」

「いいえ」

椎名さんが、遮るようにはっきり言った。
穏やかな声のまま。でも、言葉が強い。

「この処方の価値は、単一機能ではありません」

会議室が静まり返る。

「保湿、低刺激、そして環境ストレス対策。この三つを同時に成立させている点にあります」


一度だけ、私の方を見る。
ほんの一瞬。

それからまた役員に視線を戻す。

「このバランスは、そう簡単には作れません」

椎名さんの言葉には、これまで積み重ねてきた九ヶ月の私のすべてが集約されているような気がした。

「少なくとも、私は非常に完成度の高い処方だと評価しています」


会議室が静まり返った。


ここで遅れてやっと気づく。

椎名さんは、私の説明をちゃんと守ってくれている。


椎名さんの言葉が落ちたあと、会議室が静まり返った。
誰もすぐには口を開かない。


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