騎士団長は奥さんの愛を取り戻したい。
ずっと言えなかったこと 1
蒼白になって立ち尽くすフィリアに、グレンは一歩階段を上がって近づいた。
「フィリア」
「嘘よ、私そんな人知らないわ……!」
「わかってるよ」
こんな妄言に騙されるわけがない。なのにフィリアはグレンさえも敵だというように早口に捲し立てる。
「あなた達は何がしたいの? お願いだからエーリヒだけは傷つけないで」
「はは、ひどいなあフィリア。父親がバレたからって、被害者のフリ? 俺のことまで忘れちゃうなんて」
俳優だと紹介された男が、心底傷ついたという風にフィリアに話しかける。
「でもまあ仕方ないか。あの頃の君は俺や団長さま以外とも関係が──」
グレンは、もう我慢ならなかった。
振り返りざま男の胸ぐらを掴んで引き寄せ、その横っ面を殴りつける。激しい物音とともに、男は壁に頭と背中を激しく打ちつけて倒れ込んだ。
どうせエリザベトに金で雇われたのだろうけど、それにしたって陳腐すぎる役者だった。エリザベトもせっかく連れてくるのなら、もう少しまともな計画を用意すればよかったものを。
「あらあら」
殴り倒された男を、けれどエリザベトはなんの感慨もなさそうに見下ろした。
場にエーリヒがいないことだけが幸いだった。あまりの事態に困惑を隠せないフィリアに、グレンは強く頷く。
「大丈夫だよ、フィリア」
「グレン、私は」
「うん、ちゃんとわかってる、君を疑うわけないだろ。エーリヒだってあんなに僕に似てるのに」
「今はね。でも、成長したらどうかしら」
エリザベトの嬉々とした声が耳障りだった。グレンは痛む拳を握りしめる。騎士道精神なんてどうでもいい。純粋にこの女の顔も潰してやりたいと思った。
「まだいたんだ、化粧も性格も厚かましいんだな」
「意地悪のつもり? ひどいわ、騙されてたことを教えてあげたのに」
「私は騙してなんか──!」
「嘘おっしゃい」
ピシャリと言って、エリザベトがグレン越しにフィリアを睨みつける。
「だったらもっと堂々とすべきじゃなくて? 事実だからそんなに震えているのでしょ? 仮にも貴族家だった人間が取り乱すなんてみっともない」
「フィリアと話すな」
グレンはエリザベトの前に進み出て、その視界からフィリアを隠した。
「君なんかと話したらフィリアが汚れる」
「汚れる? 無知と無垢は違ってよ。それより、やっと別れる気になったのね」
荷物を運び出していた召使いを見て、エリザベトは満足そうに微笑んだ。
「でも、エーリヒ君の養育費はいくらとられたの? 血も繋がっていないのに、今ならとりかえせ──」
「出ていけ」
凄むグレンに怯むことなく、むしろエリザベトは、気の毒げに眉をひそめた。
「まだわからないの? あなたは最初から騙されていたのよ」
「君こそ頭がおかしくなったんだな。そんなにあの旦那が気に食わなかったのか」
「っ! 違うわ、私はあなたのことが忘れられなくて」
「ああそう、この上ない迷惑だったよ」
グレンは蔑み言って、男性召使いたちがエリザベトを拘束するのを見下ろした。両サイドをがっちりとかためられたエリザベトは、慌てふためく。
「ちょっ、ちょっと! 私を誰だと思ってるの? 離しなさい!」
「このことはルノア氏にきちんと報告しておくよ。彼は君のことが大好きみたいだから、土下座でもすれば許してくれるんじゃないかな」
「冗談じゃないわ! あんな人のところ!」
これ以上、フィリアにこんな茶番を見せたくはなかった。急いでフィリアを部屋に戻そうとしたグレンは振り返り──そのそばをフィリアが駆け去るのを見た。
え?
(速……)
バチン──!
次の瞬間、激しい音が、エントランスホールに鳴り響いた。
グレンも、召使いたちも、捕らえられた俳優の男も、エリザベトも、大きく目を開いてかたまった。
「……今回はこれで縁を切ってあげる。でも、またエーリヒを利用しようとしたら、その時は絶対に許さないから!!」
涙目でエリザベトを睨むフィリアが、低い声で言って。
頬を打たれたエリザベトは、あっけに取られたあと、ふたたび叫び出した。
「わ、わた! わたしを誰だと思ってるの!! このドブネズミ! 泥棒猫! 身体を使ってグレンに取り入った癖に!」
「取り入ってない! グレン様からしつこく言い寄ってきたのよ!」
「嘘おっしゃい!!」
「嘘じゃない!!!」
繰り広げられるフィリアとエリザベトの応酬に、グレンはどうしよう、とうろたえた。
フィリアは怒りをぶつけるように、キッ! とグレンにも目を向ける。
「あなたってまるで見る目がないのね!!」
「フィリア……!」
まだ喚いているエリザベトが、役者男ともども屋敷の外へ連れ出される。
フィリアは大股で階段を上がっていった。
それから数時間後。
夕暮れの空に、白い月がぼんやりと輝き始めていた。
「フィ、フィリア……入っていい?」
グレンはフィリアの私室の扉に、そう声をかけた。
エリザベトの闖入(ちんにゅう)騒ぎのせいで、引っ越し作業は一旦止まっていた。
フィリアが落ち着くまでと、今は侍女と家政婦長がついてくれている。
エリザベトと男は、軍警察へ突き出した。後でルノアが喧しいことになりそうだが、今はそれどころではない。フィリアと話す方が先決だった。こんなことで傷つけてしまうだなんて。
「フィリア……」
返事のない扉に、もう一度だけ小さく声をかける。どうしても様子が気になった。と、扉がそっと開いて、中から家政婦長が顔を覗かせてくる。
「フィリアは?」
「先程落ち着かれました。──旦那さまとお話をされたいと」
グレンは一も二もなく頷いて、家政婦長たちと入れ替わりに部屋へ入った。
昼過ぎには出立出来るはずだったのに、時刻はもう夕暮れで。荷物の少なくなったフィリアの部屋は、薄い橙と紫色に染め上げられていた。
グレンは、ソファに座っているフィリアにそっと話しかける。
「……フィリア」
フィリアは、ばつが悪そうに顔を上げた。
「ごめんなさい。さっきは、取り乱して」
「仕方ないよあんなことがあったら」
「ううん。あの人も言ってたもの。貴族家の人間ならもっと毅然と振る舞うべきだったのに、私ったら、あんな……」
フィリアの声からは、だんだんと力がなくなってしまう。
グレンは大丈夫だよ、とそばに膝をついた。
「身分なんて関係ないよ。僕だって感情的になってしまったし」
それに──本当は自分もエリザベトを殴ろうとしていた。それも、あんな程度で終わるものじゃない怪我をさせるところだった。
けれどグレンは、フィリアに、女性に手をあげそうになった男だとは思われたくなくてその言葉は呑み込んだ。
「謝るのは僕だよ、怖い思いをさせてごめん。安心して、あいつらには二度と君にもエーリヒにも近づかせないようにするから」
「……二人は、どうしたの?」
「軍で捕らえてある」
「女の人も?」
「当たり前だろ、犯罪者なんだから」
「……そう。……そうよね」
フィリアはじっとグレンを見つめながら、何かを考えている風だった。
そういえば家政婦長から、フィリアが話があると言っていたと伝えられていたことを思い出して、グレンは恐る恐る尋ねてみた。もしも今夜ここを立ちたいという相談なら、時間的に承伏出来なかった。
しかしフィリアが言ったのは、跡取りの件と同じく、グレンが予想だにしていないものだった。
「あのね、グレン」
「うん」
「あの人が言ってたこと、嘘だってわかってくれて、ありがとう」
「え?」
「エーリヒがあなたの子だって、信じてくれたでしょう」
「……」
そんなの、と言いかけて、言葉に詰まってしまう。
当たり前のことすぎて、反応が出来なかった。
──疑うわけがなかった。
フィリアが自分を裏切るわけがないと、グレンは知っていたからだ。なにせ、もう三年も一緒に暮らしているのだから。
けれどフィリアは唇を震わせて弱音を吐き出す。
「怖かったの。もしあなたがエーリヒを疑ったらって。それだけは耐えられないから」
エーリヒが父親に愛されなくなるのではないかと。
フィリアはそう恐怖したのだ。今までの愛情も思い出も、全てがなかったことにされるのではないかと。
グレンは「ありえない」と怒りにも似た勢いで、否定した。
「あんな嘘信じるわけがないよ。エーリヒは間違いなく僕の子だ。髪の色も目の色も同じだし、頑固で、でも君に弱いのもそっくり。だろう?」
唇を噛み締めたフィリアが、グレンを見つめながら、こくりと頷く。その頬にはまた涙が伝い始めていて、グレンは、もう堪えきれなくて手を伸ばした。
「だから泣かないで、フィリア」
「フィリア」
「嘘よ、私そんな人知らないわ……!」
「わかってるよ」
こんな妄言に騙されるわけがない。なのにフィリアはグレンさえも敵だというように早口に捲し立てる。
「あなた達は何がしたいの? お願いだからエーリヒだけは傷つけないで」
「はは、ひどいなあフィリア。父親がバレたからって、被害者のフリ? 俺のことまで忘れちゃうなんて」
俳優だと紹介された男が、心底傷ついたという風にフィリアに話しかける。
「でもまあ仕方ないか。あの頃の君は俺や団長さま以外とも関係が──」
グレンは、もう我慢ならなかった。
振り返りざま男の胸ぐらを掴んで引き寄せ、その横っ面を殴りつける。激しい物音とともに、男は壁に頭と背中を激しく打ちつけて倒れ込んだ。
どうせエリザベトに金で雇われたのだろうけど、それにしたって陳腐すぎる役者だった。エリザベトもせっかく連れてくるのなら、もう少しまともな計画を用意すればよかったものを。
「あらあら」
殴り倒された男を、けれどエリザベトはなんの感慨もなさそうに見下ろした。
場にエーリヒがいないことだけが幸いだった。あまりの事態に困惑を隠せないフィリアに、グレンは強く頷く。
「大丈夫だよ、フィリア」
「グレン、私は」
「うん、ちゃんとわかってる、君を疑うわけないだろ。エーリヒだってあんなに僕に似てるのに」
「今はね。でも、成長したらどうかしら」
エリザベトの嬉々とした声が耳障りだった。グレンは痛む拳を握りしめる。騎士道精神なんてどうでもいい。純粋にこの女の顔も潰してやりたいと思った。
「まだいたんだ、化粧も性格も厚かましいんだな」
「意地悪のつもり? ひどいわ、騙されてたことを教えてあげたのに」
「私は騙してなんか──!」
「嘘おっしゃい」
ピシャリと言って、エリザベトがグレン越しにフィリアを睨みつける。
「だったらもっと堂々とすべきじゃなくて? 事実だからそんなに震えているのでしょ? 仮にも貴族家だった人間が取り乱すなんてみっともない」
「フィリアと話すな」
グレンはエリザベトの前に進み出て、その視界からフィリアを隠した。
「君なんかと話したらフィリアが汚れる」
「汚れる? 無知と無垢は違ってよ。それより、やっと別れる気になったのね」
荷物を運び出していた召使いを見て、エリザベトは満足そうに微笑んだ。
「でも、エーリヒ君の養育費はいくらとられたの? 血も繋がっていないのに、今ならとりかえせ──」
「出ていけ」
凄むグレンに怯むことなく、むしろエリザベトは、気の毒げに眉をひそめた。
「まだわからないの? あなたは最初から騙されていたのよ」
「君こそ頭がおかしくなったんだな。そんなにあの旦那が気に食わなかったのか」
「っ! 違うわ、私はあなたのことが忘れられなくて」
「ああそう、この上ない迷惑だったよ」
グレンは蔑み言って、男性召使いたちがエリザベトを拘束するのを見下ろした。両サイドをがっちりとかためられたエリザベトは、慌てふためく。
「ちょっ、ちょっと! 私を誰だと思ってるの? 離しなさい!」
「このことはルノア氏にきちんと報告しておくよ。彼は君のことが大好きみたいだから、土下座でもすれば許してくれるんじゃないかな」
「冗談じゃないわ! あんな人のところ!」
これ以上、フィリアにこんな茶番を見せたくはなかった。急いでフィリアを部屋に戻そうとしたグレンは振り返り──そのそばをフィリアが駆け去るのを見た。
え?
(速……)
バチン──!
次の瞬間、激しい音が、エントランスホールに鳴り響いた。
グレンも、召使いたちも、捕らえられた俳優の男も、エリザベトも、大きく目を開いてかたまった。
「……今回はこれで縁を切ってあげる。でも、またエーリヒを利用しようとしたら、その時は絶対に許さないから!!」
涙目でエリザベトを睨むフィリアが、低い声で言って。
頬を打たれたエリザベトは、あっけに取られたあと、ふたたび叫び出した。
「わ、わた! わたしを誰だと思ってるの!! このドブネズミ! 泥棒猫! 身体を使ってグレンに取り入った癖に!」
「取り入ってない! グレン様からしつこく言い寄ってきたのよ!」
「嘘おっしゃい!!」
「嘘じゃない!!!」
繰り広げられるフィリアとエリザベトの応酬に、グレンはどうしよう、とうろたえた。
フィリアは怒りをぶつけるように、キッ! とグレンにも目を向ける。
「あなたってまるで見る目がないのね!!」
「フィリア……!」
まだ喚いているエリザベトが、役者男ともども屋敷の外へ連れ出される。
フィリアは大股で階段を上がっていった。
それから数時間後。
夕暮れの空に、白い月がぼんやりと輝き始めていた。
「フィ、フィリア……入っていい?」
グレンはフィリアの私室の扉に、そう声をかけた。
エリザベトの闖入(ちんにゅう)騒ぎのせいで、引っ越し作業は一旦止まっていた。
フィリアが落ち着くまでと、今は侍女と家政婦長がついてくれている。
エリザベトと男は、軍警察へ突き出した。後でルノアが喧しいことになりそうだが、今はそれどころではない。フィリアと話す方が先決だった。こんなことで傷つけてしまうだなんて。
「フィリア……」
返事のない扉に、もう一度だけ小さく声をかける。どうしても様子が気になった。と、扉がそっと開いて、中から家政婦長が顔を覗かせてくる。
「フィリアは?」
「先程落ち着かれました。──旦那さまとお話をされたいと」
グレンは一も二もなく頷いて、家政婦長たちと入れ替わりに部屋へ入った。
昼過ぎには出立出来るはずだったのに、時刻はもう夕暮れで。荷物の少なくなったフィリアの部屋は、薄い橙と紫色に染め上げられていた。
グレンは、ソファに座っているフィリアにそっと話しかける。
「……フィリア」
フィリアは、ばつが悪そうに顔を上げた。
「ごめんなさい。さっきは、取り乱して」
「仕方ないよあんなことがあったら」
「ううん。あの人も言ってたもの。貴族家の人間ならもっと毅然と振る舞うべきだったのに、私ったら、あんな……」
フィリアの声からは、だんだんと力がなくなってしまう。
グレンは大丈夫だよ、とそばに膝をついた。
「身分なんて関係ないよ。僕だって感情的になってしまったし」
それに──本当は自分もエリザベトを殴ろうとしていた。それも、あんな程度で終わるものじゃない怪我をさせるところだった。
けれどグレンは、フィリアに、女性に手をあげそうになった男だとは思われたくなくてその言葉は呑み込んだ。
「謝るのは僕だよ、怖い思いをさせてごめん。安心して、あいつらには二度と君にもエーリヒにも近づかせないようにするから」
「……二人は、どうしたの?」
「軍で捕らえてある」
「女の人も?」
「当たり前だろ、犯罪者なんだから」
「……そう。……そうよね」
フィリアはじっとグレンを見つめながら、何かを考えている風だった。
そういえば家政婦長から、フィリアが話があると言っていたと伝えられていたことを思い出して、グレンは恐る恐る尋ねてみた。もしも今夜ここを立ちたいという相談なら、時間的に承伏出来なかった。
しかしフィリアが言ったのは、跡取りの件と同じく、グレンが予想だにしていないものだった。
「あのね、グレン」
「うん」
「あの人が言ってたこと、嘘だってわかってくれて、ありがとう」
「え?」
「エーリヒがあなたの子だって、信じてくれたでしょう」
「……」
そんなの、と言いかけて、言葉に詰まってしまう。
当たり前のことすぎて、反応が出来なかった。
──疑うわけがなかった。
フィリアが自分を裏切るわけがないと、グレンは知っていたからだ。なにせ、もう三年も一緒に暮らしているのだから。
けれどフィリアは唇を震わせて弱音を吐き出す。
「怖かったの。もしあなたがエーリヒを疑ったらって。それだけは耐えられないから」
エーリヒが父親に愛されなくなるのではないかと。
フィリアはそう恐怖したのだ。今までの愛情も思い出も、全てがなかったことにされるのではないかと。
グレンは「ありえない」と怒りにも似た勢いで、否定した。
「あんな嘘信じるわけがないよ。エーリヒは間違いなく僕の子だ。髪の色も目の色も同じだし、頑固で、でも君に弱いのもそっくり。だろう?」
唇を噛み締めたフィリアが、グレンを見つめながら、こくりと頷く。その頬にはまた涙が伝い始めていて、グレンは、もう堪えきれなくて手を伸ばした。
「だから泣かないで、フィリア」