鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜
第10話 解けない魔法と甘いルール
夢を見るのも忘れたみたいに、深く眠っていた。
体が軽い。
すっきりと目を覚まして、軽く伸びをしたところで、ふと違和感に気づく。
(……あれ?この部屋……)
カーテンの色。
ベッドの広さ。
天井の高さ。
「……っ!!」
一気に昨日の記憶が蘇って、あたしは慌てて寝室を飛び出した。
リビングへ向かうと、思った通りだった。
昨日、あたしが寝落ちしてしまったソファに、本来の持ち主が横になっている。
眼鏡をかけたまま、気持ち良さそうに眠っている。
身体を少し丸めて、自分の腕を枕にしたまま。
「す、すみません……!」
駆け寄ったものの、起きる気配は無い。
むしろ小さく寝返りを打って、さらにソファに沈み込んだ。
少し窮屈そうなその姿は、さながら丸まって眠る大型犬みたいで。
普段の鋭さが嘘みたいに、無防備だった。
(……かわいい)
何言ってんのあたし、違う違う。
ふと、テーブルの上に散らばった資料に、視線がいく。
赤ペン、付箋、走り書きのメモ。
積まれたバインダー。
冷えきった空のマグカップ。
(あたしが寝たあとも、ここで仕事してたんだ)
言葉にならない感情が、静かなさざ波みたいに胸に広がっていく。
そのとき。
「……んー……」
低い声。
身じろぎして、ゆっくりと目を開ける。
「……はよー…」
寝起き特有の掠れた声で、こちらを見る。
「あ……おはようございます、
すみません、あたしがベッド使って……!」
言い切る前に、片手が伸びてきて、軽く制される。
「ええよ。眠れた?」
自分のことより先に、あたしにそう聞く。
その優しさが、胸をきゅっと締めつけた。
「は、はい……すごく……」
「そらよかった」
あくびを噛み殺しながら、ゆっくり起き上がる。
鷹宮先輩は、机の上に散らばっていたものを片付けて、キッチンへ向かった。
「手伝いますねっ」と慌てて、あたしも背中を追いかけた。
遅めの朝食を並べて向かい合って座る。
食べながら、ふいに鷹宮先輩が口を開いた。
「……なぁ」
「はい?」
「このままやと、生活ごちゃごちゃになるやろ」
箸を置いたその顔は、少しだけ真面目だった。
あたしは、ついにこの話をする時が来たんだと察する。
言わなきゃいけないのは、きっとあたしの方だ。
「ずっとお世話になるのは、やっぱり悪いですし……」
「そろそろ、自分で探さないとって……」
言い終わる前に、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
「……それ、本気で言うてる?」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
ただ、逃げ道を塞ぐような真っ直ぐな目。
「昨日、あの部屋行って」
ゆっくり言葉を選ぶみたいに、続ける。
「まだ落ち着いてへんって、分からんほど鈍くないで」
低くて、静かな声。
その一言で、 あたしの中にあった“遠慮”が、言い訳みたいに崩れていく。
「泊めるとか、世話するとか――そういう曖昧なん、やめよ」
そう言って、鷹宮先輩は一度、静かに息を吐いた。
箸を置く小さな音が、やけに大きく響く。
「ちゃんと決める」
冗談も、逃げ道もない声音だった。
思わず、背筋が伸びる。
ほんの一拍のあと。
「……同居、やな」
“泊めてもらう”じゃない。
――この人と、暮らす。
あたしは、何も言えないまま、 ただ、鷹宮先輩を見返していた。
「ただし、ルールは決める」
「はい……!」
その反応がおかしかったのか、先輩がふっと笑った。
「まず、家賃とかいらんから、俺の健康維持のためにも食費と家事は葵が担当」
反論の隙を与えず、次々に言葉が落ちてくる。
「無理な日は無理って言う。ため込まんことな」
「ご飯は、基本一緒に食べる」
それだけ、少し声が柔らかくなった気がした。
「仕事で遅なる時は、ちゃんと連絡する」
一拍置いて、最後。
「あと……勝手に一人で抱え込まんことと、素直に俺に甘やかされること」
少し意地悪っぽく笑う。
「嫌なら言いや?」
拒否権を残した言い方のはずなのに、断れる空気じゃなかった。
「……い、嫌じゃないです」
(むしろ、あたしだけが得してるみたい……いいのかな?)
そんな考えまで見透かしたみたいに、鷹宮先輩は肩をすくめた。
「我慢や無理はしてへんで?何なら、葵の作ったメシ食えるん最高やし」
「……他のやつに食わせるん、もったいないくらいやな」
慣れない褒め言葉に、気恥ずかしくなった。
「後は、ややこしなるから、雪乃や和巳とか以外には内緒にしとこか」
「それなら、南実くん……あたしの同期で真鍋さんの――」
「ん、葵が信頼してる子ならええよ」
唯一の同期、松原南実(まつばら みなみ)くん。
新人時代を一緒に乗り越えた戦友みたいな存在だ。
知ってくれる人がいるのは、たしかに心強い。
「ほな、決まりや」
そう言って、鷹宮先輩が右手を差し出した。
あたしもそっと手を重ねる。
「改めてよろしくな、葵」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
重ねた手のひらの熱が、じんわりと残る。
――こうして、曖昧だった居場所は、
ちゃんと「ふたりの生活」に変わっていった。
***
ルールを決めたあと、アパートから持ち帰った荷物の整理を二人で済ませた。
気づけば、もう十五時を回っている。
夕食の準備のため、近所のスーパーへ食材を買いに行った。
「鷹宮先輩……またプリン買ってましたね」
「甘いおやつの常備は常識やで」
「……ちゃんとご飯も食べてくださいね」
「当たり前やん、プリンは別腹やし」
「女子高生みたいなこと、言いますね」
軽口を交わしながら、買ってきた食材を冷蔵庫へ片付けていく。
今日のリクエストはロールキャベツ。
あたしがエプロンをつけて調理を始めると、鷹宮先輩は頬杖をついてカウンター越しにじっと見ていた。
「手際いいな、料理すんの好きなん?」
「そうですね、楽しいし好きですね」
剥いたキャベツをレンジに入れる。
すると、隣に来た鷹宮先輩が「俺も手伝う」と腕まくりを始めた。
具材を合わせたミンチを捏ねながら、先輩がふいに尋ねる。
「葵、ちゃんと食べれてる?」
「普通には……どうしてですか?」
「めっちゃ軽かったから」
昨晩のことだ。
思い出しただけで顔が熱くなる。
「男の人って、細い方が好きなんかなって、なんとなく……」
「それは人それぞれやろ。少なくとも俺はちゃうで」
少し迷ってから、聞いてみる。
「じゃあ、鷹宮先輩のタイプはどんな人ですか?」
はぐらかされると思っていたのに。
なのに、真剣な瞳がまっすぐあたしを捉えた。
「鷹宮璋という――俺自身を見てくれる人」
一瞬、時が止まったみたいな、でもはっきりとした口調。
(それって……)
肩書きでも、仕事ぶりでもなく。
甘いカフェオレを飲んで、プリンを常備して、料理は少し苦手で。
そういう鷹宮先輩自身を、見てほしいってことなんだろうか。
「そういう葵チャンは?」
直後に返ってきた問いに、今度はあたしが息を詰まらせる。
「……今度こそ、自分を偽らず自然体でいられる人……です」
「頑張ってロールキャベツ、作っていきましょう」
誤魔化すように具材を切っていくと、すぐ隣で声が落ちる。
「葵、ストップ。紐ほどけそうや」
先に気づいた先輩が、エプロンの紐を結び直す。
「ん、ええよ」
ぽんっと軽く叩かれて、また心臓が跳ねた。
「……ありがとうございます」
こんな些細なことなのに、触れられただけで意識してしまう。
そのまま、鷹宮先輩は柔らかく笑った。
「こうやって一緒に料理するんも、楽しいな」
そして、何気なく。
「またやろうな、葵」
キッチンに浮かぶ並んだ2つの影。
その光景が、胸の奥をじんわりと溶かしていった。
***
上出来だった夕食とお風呂を終え、乾いた食器を片付けていた。
ふと窓に映った自分の姿に気づく。
髪はまだ少し湿っていて、毛先が無造作に肩へ落ちていた。
(……あとで乾かそ)
そう思ってキッチンを離れようとした瞬間。
「……葵」
低い声に、足が止まる。
「髪」
短く、それだけ。
振り返ると、鷹宮先輩が腕を組んでこちらを見ていた。
視線はまっすぐ、あたしの髪へ向いている。
「まだ濡れとるやろ」
「あ、はい。あとで――」
「あとで、やない」
被せるように言われて、言葉が詰まる。
「風邪ひく」
それだけ言って、先輩はソファの方へ顎をしゃくった。
「おいで」
命令みたいなのに、声は不思議と優しい。
「え、でも……」
「ルール」
一拍。
「甘やかす、言うたやろ」
反論する余地が、どこにもなかった。
ソファの下のラグに座らされて、あたしは落ち着かないまま背筋を伸ばす。
後ろのソファに座った先輩が、ドライヤーを手に取る気配。
スイッチが入った瞬間、温かい風が首筋を撫でていく。
「……やっぱり自分で」
思わずこぼれた声に、「動くな」と即座に返ってくる。
仕事のときと同じ低いトーン。
なのに、距離が違いすぎて心臓がうるさい。
先輩の指が、髪に触れる。
濡れた毛先をすくい上げて、絡まないようにゆっくりと。
「……ちゃんと乾かさんと、クセつくで」
「……はい」
「髪、ほっそいな」
返事しかできない。
耳元をかすめる風と、鷹宮先輩の指先。
時々、髪をかき分けるときに頬に触れる熱。
さっきまで少し冷えていた身体が、違う熱を帯びていくのがわかった。
(……これ、普通?)
普通じゃない気がする。
「……鷹宮先輩」
呼ぶと、少しだけ手が止まった。
「ん?」
「……慣れてますね」
「何が」
「髪、乾かすの」
一瞬の間。
「……妹おるからな」
さらっと言われて、なるほどと妙に納得してしまう。
でも、そのあと。
「せやけど」
指先が、ゆっくりと耳の後ろを通る。
「他人にこんな近づくん、久々やわ」
「……葵は、なんか別やけどな」
(……他人)
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ、ひやりとした。
もっと、違う名前で呼ばれたい。
そう願ってしまう自分が、どうしようもなく怖くなった。
「よし」
ドライヤーの音が止み、部屋に静けさが戻る。
さっきまで掻き消されていた、お互いの呼吸の音が耳の奥に響いた。
名残惜しむみたいに、最後に一度だけ髪をすいて流す。
「……終わったで」
肩に落ちた髪に触れて、思わず呟いた。
「あったかいし、サラサラ……」
「せやろ」
すぐ後ろから、得意気な声。
「……これも、ルール追加な」
「え?」
「風呂上がりは、俺が乾かす」
あまりにも自然に言うから、言葉の意味が追いつかない。
「これは俺のワガママ、嫌やったら言え」
そう言いながら、もう一度だけ髪に触れる。
「……でも」
少し低くなった声で。
「濡れたまま放っとく方が、俺が落ち着かん」
――無自覚。
完全に。
何も言えずにいるあたしの背中へ、軽く手を置く。
「はい、おしまい」
その一言で全部終わったみたいなのに、鼓動だけがまるで終わってくれなかった。
(……これが、甘いルール)
解ける気なんて、最初からしなかった。
***
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めて、静かにリビングへ向かう。
キッチンでは、すでに鷹宮先輩がコーヒーを淹れていた。
「……おはようございます」
「おはよ。早いな」
それだけなのに、胸が落ち着く。
テーブルには、並んだマグカップ。
昨日と同じ配置。
最初からそうだったみたいに、自然に。
「……ちゃんと寝たんか?」
「はい。……ぐっすり」
「そらよかった」
差し出されたカップを受け取る。
あたたかさが、そのまま身体に染みていく。
「月曜やな」
「……はい」
「会社、行くで」
当たり前みたいに言われて、 一緒に出ることが前提になっているのだと気づく。
玄関でコートを羽織る。
「……あの」
「ん?」
「よろしくお願いします。同居も仕事も」
一瞬だけ目を瞬かせてから、鷹宮先輩は軽く笑った。
「今さらやな。カードキー持ったか?」
「ほな、行こか」
ドアが開き、冬の匂いがする空気が流れ込んだ。
並んで外へ出る、その距離が昨日より近い。
エレベーターの中。
「……髪」
一言だけ。
「ちゃんと乾いてるな」
(……覚えてる)
「はい」
「よし」
外へ出る直前。
ほんの一瞬だけ、背中に触れられる。
押すでもなく、支えるでもなく。
そこにいることを確かめるみたいに。
その一瞬だけで、背中の奥にまで熱が残った。
「寒いから、気ぃつけや」
あたしは駅へ。
鷹宮先輩は駐車場へ。
別々に歩き出すのに、
――もう、ちゃんと、帰る場所になっていた。
体が軽い。
すっきりと目を覚まして、軽く伸びをしたところで、ふと違和感に気づく。
(……あれ?この部屋……)
カーテンの色。
ベッドの広さ。
天井の高さ。
「……っ!!」
一気に昨日の記憶が蘇って、あたしは慌てて寝室を飛び出した。
リビングへ向かうと、思った通りだった。
昨日、あたしが寝落ちしてしまったソファに、本来の持ち主が横になっている。
眼鏡をかけたまま、気持ち良さそうに眠っている。
身体を少し丸めて、自分の腕を枕にしたまま。
「す、すみません……!」
駆け寄ったものの、起きる気配は無い。
むしろ小さく寝返りを打って、さらにソファに沈み込んだ。
少し窮屈そうなその姿は、さながら丸まって眠る大型犬みたいで。
普段の鋭さが嘘みたいに、無防備だった。
(……かわいい)
何言ってんのあたし、違う違う。
ふと、テーブルの上に散らばった資料に、視線がいく。
赤ペン、付箋、走り書きのメモ。
積まれたバインダー。
冷えきった空のマグカップ。
(あたしが寝たあとも、ここで仕事してたんだ)
言葉にならない感情が、静かなさざ波みたいに胸に広がっていく。
そのとき。
「……んー……」
低い声。
身じろぎして、ゆっくりと目を開ける。
「……はよー…」
寝起き特有の掠れた声で、こちらを見る。
「あ……おはようございます、
すみません、あたしがベッド使って……!」
言い切る前に、片手が伸びてきて、軽く制される。
「ええよ。眠れた?」
自分のことより先に、あたしにそう聞く。
その優しさが、胸をきゅっと締めつけた。
「は、はい……すごく……」
「そらよかった」
あくびを噛み殺しながら、ゆっくり起き上がる。
鷹宮先輩は、机の上に散らばっていたものを片付けて、キッチンへ向かった。
「手伝いますねっ」と慌てて、あたしも背中を追いかけた。
遅めの朝食を並べて向かい合って座る。
食べながら、ふいに鷹宮先輩が口を開いた。
「……なぁ」
「はい?」
「このままやと、生活ごちゃごちゃになるやろ」
箸を置いたその顔は、少しだけ真面目だった。
あたしは、ついにこの話をする時が来たんだと察する。
言わなきゃいけないのは、きっとあたしの方だ。
「ずっとお世話になるのは、やっぱり悪いですし……」
「そろそろ、自分で探さないとって……」
言い終わる前に、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
「……それ、本気で言うてる?」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
ただ、逃げ道を塞ぐような真っ直ぐな目。
「昨日、あの部屋行って」
ゆっくり言葉を選ぶみたいに、続ける。
「まだ落ち着いてへんって、分からんほど鈍くないで」
低くて、静かな声。
その一言で、 あたしの中にあった“遠慮”が、言い訳みたいに崩れていく。
「泊めるとか、世話するとか――そういう曖昧なん、やめよ」
そう言って、鷹宮先輩は一度、静かに息を吐いた。
箸を置く小さな音が、やけに大きく響く。
「ちゃんと決める」
冗談も、逃げ道もない声音だった。
思わず、背筋が伸びる。
ほんの一拍のあと。
「……同居、やな」
“泊めてもらう”じゃない。
――この人と、暮らす。
あたしは、何も言えないまま、 ただ、鷹宮先輩を見返していた。
「ただし、ルールは決める」
「はい……!」
その反応がおかしかったのか、先輩がふっと笑った。
「まず、家賃とかいらんから、俺の健康維持のためにも食費と家事は葵が担当」
反論の隙を与えず、次々に言葉が落ちてくる。
「無理な日は無理って言う。ため込まんことな」
「ご飯は、基本一緒に食べる」
それだけ、少し声が柔らかくなった気がした。
「仕事で遅なる時は、ちゃんと連絡する」
一拍置いて、最後。
「あと……勝手に一人で抱え込まんことと、素直に俺に甘やかされること」
少し意地悪っぽく笑う。
「嫌なら言いや?」
拒否権を残した言い方のはずなのに、断れる空気じゃなかった。
「……い、嫌じゃないです」
(むしろ、あたしだけが得してるみたい……いいのかな?)
そんな考えまで見透かしたみたいに、鷹宮先輩は肩をすくめた。
「我慢や無理はしてへんで?何なら、葵の作ったメシ食えるん最高やし」
「……他のやつに食わせるん、もったいないくらいやな」
慣れない褒め言葉に、気恥ずかしくなった。
「後は、ややこしなるから、雪乃や和巳とか以外には内緒にしとこか」
「それなら、南実くん……あたしの同期で真鍋さんの――」
「ん、葵が信頼してる子ならええよ」
唯一の同期、松原南実(まつばら みなみ)くん。
新人時代を一緒に乗り越えた戦友みたいな存在だ。
知ってくれる人がいるのは、たしかに心強い。
「ほな、決まりや」
そう言って、鷹宮先輩が右手を差し出した。
あたしもそっと手を重ねる。
「改めてよろしくな、葵」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
重ねた手のひらの熱が、じんわりと残る。
――こうして、曖昧だった居場所は、
ちゃんと「ふたりの生活」に変わっていった。
***
ルールを決めたあと、アパートから持ち帰った荷物の整理を二人で済ませた。
気づけば、もう十五時を回っている。
夕食の準備のため、近所のスーパーへ食材を買いに行った。
「鷹宮先輩……またプリン買ってましたね」
「甘いおやつの常備は常識やで」
「……ちゃんとご飯も食べてくださいね」
「当たり前やん、プリンは別腹やし」
「女子高生みたいなこと、言いますね」
軽口を交わしながら、買ってきた食材を冷蔵庫へ片付けていく。
今日のリクエストはロールキャベツ。
あたしがエプロンをつけて調理を始めると、鷹宮先輩は頬杖をついてカウンター越しにじっと見ていた。
「手際いいな、料理すんの好きなん?」
「そうですね、楽しいし好きですね」
剥いたキャベツをレンジに入れる。
すると、隣に来た鷹宮先輩が「俺も手伝う」と腕まくりを始めた。
具材を合わせたミンチを捏ねながら、先輩がふいに尋ねる。
「葵、ちゃんと食べれてる?」
「普通には……どうしてですか?」
「めっちゃ軽かったから」
昨晩のことだ。
思い出しただけで顔が熱くなる。
「男の人って、細い方が好きなんかなって、なんとなく……」
「それは人それぞれやろ。少なくとも俺はちゃうで」
少し迷ってから、聞いてみる。
「じゃあ、鷹宮先輩のタイプはどんな人ですか?」
はぐらかされると思っていたのに。
なのに、真剣な瞳がまっすぐあたしを捉えた。
「鷹宮璋という――俺自身を見てくれる人」
一瞬、時が止まったみたいな、でもはっきりとした口調。
(それって……)
肩書きでも、仕事ぶりでもなく。
甘いカフェオレを飲んで、プリンを常備して、料理は少し苦手で。
そういう鷹宮先輩自身を、見てほしいってことなんだろうか。
「そういう葵チャンは?」
直後に返ってきた問いに、今度はあたしが息を詰まらせる。
「……今度こそ、自分を偽らず自然体でいられる人……です」
「頑張ってロールキャベツ、作っていきましょう」
誤魔化すように具材を切っていくと、すぐ隣で声が落ちる。
「葵、ストップ。紐ほどけそうや」
先に気づいた先輩が、エプロンの紐を結び直す。
「ん、ええよ」
ぽんっと軽く叩かれて、また心臓が跳ねた。
「……ありがとうございます」
こんな些細なことなのに、触れられただけで意識してしまう。
そのまま、鷹宮先輩は柔らかく笑った。
「こうやって一緒に料理するんも、楽しいな」
そして、何気なく。
「またやろうな、葵」
キッチンに浮かぶ並んだ2つの影。
その光景が、胸の奥をじんわりと溶かしていった。
***
上出来だった夕食とお風呂を終え、乾いた食器を片付けていた。
ふと窓に映った自分の姿に気づく。
髪はまだ少し湿っていて、毛先が無造作に肩へ落ちていた。
(……あとで乾かそ)
そう思ってキッチンを離れようとした瞬間。
「……葵」
低い声に、足が止まる。
「髪」
短く、それだけ。
振り返ると、鷹宮先輩が腕を組んでこちらを見ていた。
視線はまっすぐ、あたしの髪へ向いている。
「まだ濡れとるやろ」
「あ、はい。あとで――」
「あとで、やない」
被せるように言われて、言葉が詰まる。
「風邪ひく」
それだけ言って、先輩はソファの方へ顎をしゃくった。
「おいで」
命令みたいなのに、声は不思議と優しい。
「え、でも……」
「ルール」
一拍。
「甘やかす、言うたやろ」
反論する余地が、どこにもなかった。
ソファの下のラグに座らされて、あたしは落ち着かないまま背筋を伸ばす。
後ろのソファに座った先輩が、ドライヤーを手に取る気配。
スイッチが入った瞬間、温かい風が首筋を撫でていく。
「……やっぱり自分で」
思わずこぼれた声に、「動くな」と即座に返ってくる。
仕事のときと同じ低いトーン。
なのに、距離が違いすぎて心臓がうるさい。
先輩の指が、髪に触れる。
濡れた毛先をすくい上げて、絡まないようにゆっくりと。
「……ちゃんと乾かさんと、クセつくで」
「……はい」
「髪、ほっそいな」
返事しかできない。
耳元をかすめる風と、鷹宮先輩の指先。
時々、髪をかき分けるときに頬に触れる熱。
さっきまで少し冷えていた身体が、違う熱を帯びていくのがわかった。
(……これ、普通?)
普通じゃない気がする。
「……鷹宮先輩」
呼ぶと、少しだけ手が止まった。
「ん?」
「……慣れてますね」
「何が」
「髪、乾かすの」
一瞬の間。
「……妹おるからな」
さらっと言われて、なるほどと妙に納得してしまう。
でも、そのあと。
「せやけど」
指先が、ゆっくりと耳の後ろを通る。
「他人にこんな近づくん、久々やわ」
「……葵は、なんか別やけどな」
(……他人)
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ、ひやりとした。
もっと、違う名前で呼ばれたい。
そう願ってしまう自分が、どうしようもなく怖くなった。
「よし」
ドライヤーの音が止み、部屋に静けさが戻る。
さっきまで掻き消されていた、お互いの呼吸の音が耳の奥に響いた。
名残惜しむみたいに、最後に一度だけ髪をすいて流す。
「……終わったで」
肩に落ちた髪に触れて、思わず呟いた。
「あったかいし、サラサラ……」
「せやろ」
すぐ後ろから、得意気な声。
「……これも、ルール追加な」
「え?」
「風呂上がりは、俺が乾かす」
あまりにも自然に言うから、言葉の意味が追いつかない。
「これは俺のワガママ、嫌やったら言え」
そう言いながら、もう一度だけ髪に触れる。
「……でも」
少し低くなった声で。
「濡れたまま放っとく方が、俺が落ち着かん」
――無自覚。
完全に。
何も言えずにいるあたしの背中へ、軽く手を置く。
「はい、おしまい」
その一言で全部終わったみたいなのに、鼓動だけがまるで終わってくれなかった。
(……これが、甘いルール)
解ける気なんて、最初からしなかった。
***
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めて、静かにリビングへ向かう。
キッチンでは、すでに鷹宮先輩がコーヒーを淹れていた。
「……おはようございます」
「おはよ。早いな」
それだけなのに、胸が落ち着く。
テーブルには、並んだマグカップ。
昨日と同じ配置。
最初からそうだったみたいに、自然に。
「……ちゃんと寝たんか?」
「はい。……ぐっすり」
「そらよかった」
差し出されたカップを受け取る。
あたたかさが、そのまま身体に染みていく。
「月曜やな」
「……はい」
「会社、行くで」
当たり前みたいに言われて、 一緒に出ることが前提になっているのだと気づく。
玄関でコートを羽織る。
「……あの」
「ん?」
「よろしくお願いします。同居も仕事も」
一瞬だけ目を瞬かせてから、鷹宮先輩は軽く笑った。
「今さらやな。カードキー持ったか?」
「ほな、行こか」
ドアが開き、冬の匂いがする空気が流れ込んだ。
並んで外へ出る、その距離が昨日より近い。
エレベーターの中。
「……髪」
一言だけ。
「ちゃんと乾いてるな」
(……覚えてる)
「はい」
「よし」
外へ出る直前。
ほんの一瞬だけ、背中に触れられる。
押すでもなく、支えるでもなく。
そこにいることを確かめるみたいに。
その一瞬だけで、背中の奥にまで熱が残った。
「寒いから、気ぃつけや」
あたしは駅へ。
鷹宮先輩は駐車場へ。
別々に歩き出すのに、
――もう、ちゃんと、帰る場所になっていた。