鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜
第22話 招かれざる晴れ着、嵐山に降る毒
京都特有の底冷えする夜気が、肺の奥まで突き刺さる。
それなのに、内側だけが、焼けるみたいに熱い。
――理性が、追いつかん。
欲しくて、どうしようもない。
除夜の鐘さえ、遠くに霞んでいた。
四ノ宮の肩書きでも、鷹宮という家名でもない。
ただの「璋」という一人の男を、真っ直ぐに見つめて好きだと言う。
――それは、俺が人生で一番、喉から手が出るほど欲しかったものだった。
「葵、帰るで」
「璋さん?」
「あんな告白聞かされて、何もせんでいられると思う?」
葵が言葉の代わりに、凍えた指先で強く握ってきた。
焼き切れそうな理性を必死に繋ぎ止め、急いで嵐山のばあちゃんの家に帰る。
部屋の重い扉を閉めた瞬間、もう一秒も待てなかった。
葵の細い体を抱き上げると、彼女は縋るように俺の首に顔を埋めてくる。
触れ合う吐息と、震える肩。
それだけで、理性がほどけていく。
「……葵」
「……えっ……んっ!」
言いかけた葵の声を、奪うように唇で塞いだ。
冬の静寂の中に、かわいい拒絶の声が、ゆっくりと甘い熱を帯びた吐息に溶けていった。
まだぐっすり眠っている隣で、葵の髪をそっと撫でる。
「…………あかんわ」
真っ白なシーツから覗く葵の白い肩、昨夜俺が刻んだ赤い痕。
それを眺めているだけで、胸の奥が締め付けられ痺れる。
朝の光の中で、無防備に俺の腕に収まっているこの温もり。
俺がどれほど彼女を欲し、どれほど深く溺れているか、葵はまだ知らんのやろな。
(何もかも捨てて……このままずっと二人でいられたら、どれだけ楽やろな)
(……無理やって、分かってるけど)
「手に入れた途端、臆病になるとか……ないわ」
それでも。
届かないほどの小さな声で、彼女の耳元に囁く。
「……好きやで、葵」
この後、忍び寄る四ノ宮の影など微塵も感じさせないほど、嵐山の朝日は澄み切っていた。
***
案の定、あたしはまともに起き上がることができず、気づけばお昼前になっていた。
昨夜の熱を思い出すだけで顔が火照り、中々布団から出られずにいる。
そんなあたしを見て、璋さんは優しく笑っている幸せな目覚めだった。
昼食をいただいたあと、「せっかくやし」と紅葉さんが着付けてくれたのは、淡い桃色の晴れ着。
お酒の神様が祀られているという神社へ向かった。
境内にあるずらりと並んだ酒樽に魅入っていると、繋がれた手が引っ張られる。
「葵、はぐれんなよ」
上質な紺碧の生地が、彼の体躯を優雅に包む。
隣を歩く着物姿の璋さんは、いつもとは違う、抗いようのない「大人の色気」を放っている。
(……いつも以上にかっこよすぎて、目眩がする)
切れ長な瞳が、冬の澄んだ光を反射して鋭く、けれど甘く輝く。
(……このままで、いられますように)
旅館に帰り着いた瞬間、玄関に凛と立つ、あまりに見事な晴れ着姿の老婦人。
年齢を重ねてもなお、背筋が真っ直ぐで、静かな品格を纏っている。
「四ノ宮さま、お待ちしておりました」
ゆっくりとこちらを振り返った瞬間、隣にいた璋さんの肩がびくんと跳ねた。
「……うげっ」
「………………最悪や」
聞いたこともないような、地を這う呻き声。
あたしが驚いて彼を見上げると、眉間に深くシワを寄せ、絶望の表情を浮かべていた。
「……璋」
低く、落ち着いた老婦人の声。
彼女の視線が、すっとあたしを捉える。
慈愛に満ちた、けれど逃げ場を一切与えない冷徹な瞳に、思わず竦みそうになる。
「可愛らしいお嬢さんね」
まるで値踏みするような視線が、ゆっくりと全身をなぞった。
ぞくりと背筋に冷たい汗が流れる。
「あの子は、一度抱えたら離し方を知らないの」
「だからこそ、覚悟のない人を隣に置けないのよ」
まるで、笑顔のまま刃を向けられているみたいだった。
それだけ言って、璋さんに視線を戻すと、すっと奥へ消えていった。
「……璋さん、あの方は……お知り合い、ですか?」
あたしが震える声で尋ねても、彼は珍しく口を噤んだまま。
眉間に深い皺を刻み、ただ背筋を強張らせていた。
「あっくん、葵さん、おかえりやす〜」
紅葉さんが、けろっとした笑顔で駆け寄ってくる。
「……なんで、ばあちゃんがここにおんねん」
璋さんの恨めしげな呟き。
「だって、あっくんがこんなかいらしお嬢さんを連れてきはったんやもん。そら、いのちゃんに連絡せなあかんやろ?」
(いのちゃん……? さっきの老婦人は璋さんのお祖母様?)
「どういうネットワークなん……まじで……」
「うふふ、いのちゃんはなぁ『……あの子はね優しいのよ。だからこそ、壊れるの』って」
「あっくんのこと、ほんまに心配してはるんよ」
璋さんは短く吐息を漏らすと、観念したように場所を聞いた。
そして、紅葉さんの目の前だというのに、あたしを壊れ物のように強く抱き締めた。
「……璋さん?」
「…………ちょっと、チャージさせて」
大きな腕に、ぎゅっと力がこもる。
すがりつくような、切実な抱擁。
あんなに甘かった彼の体温が、今はどこか頼りなくて、ひどく冷たく感じた。
「……ありがとうな、葵。……ごめん、ちょっとだけ挨拶に行ってくるから」
「ええこで……待ってて」
そう言って、彼は一度も振り返ることなく、階段の上へと消えていった。
その背中が、やけに小さく見えて。
「ほな、葵さんはうちと一緒にお茶しましょか。……あっくんの子供の頃のアルバム、見ぃひん? 」
不穏な空気を纏ったまま去っていった璋さんの背中が気になるけれど。
彼の「本当のルーツ」を知りたいという抗えない好奇心に、あたしは小さく頷いた。
***
重厚な扉を前に、俺は一度深く、重苦しい空気を吸い込んだ。
気持ちを整えてノックをすると、中から聞き慣れた凛とした声が返ってきた。
「明けましておめでとう、あっくん」
四ノ宮いのは、悠然と座したまま俺を射抜くような視線を向けた。
「……明けましておめでとう……やなくて! なんでこんなとこにおんねん!」
「紅葉ちゃんに誘われたからよ。それ以外の理由があるかしら?」
「ちゃうやろ。……葵を見に来たんやろ」
核心を突くと、ばあちゃんは薄く笑みを浮かべた。
「わかっているなら、話が早いわね。……遊びなら良いけれど、本気なら許しません」
「葵とは真剣やで」
俺の言葉を、ばあちゃんは簡単に一蹴した。
「彼女には務まりません。あなたの“恋人ごっこ”の相手なら、十分でしょうけど。四ノ宮の妻という椅子は、その程度の覚悟では座れません」
「あなたは四ノ宮の人間です。伴侶になる方は、それ相応のご令嬢でないといけません」
口づけたコーヒーカップを置く音が、やけに大きく響く。
「……だから茉白ってか?」
腕を組み嘲笑するも、ばあちゃんの瞳は揺るがへん。
「そうです。宝生茉白(ほうしょう ましろ)は宝生グループのご令嬢。家柄も教養も、あなたを支えるにこれ以上ない逸材よ」
「あなたも、ご存知でしょう?」
「……見合いには行かへん」
「璋」
低く、けれど逃げ場を塞ぐような圧。
「あなた一個人の我儘ではありません。四ノ宮璋という重責を背負う以上、義務は付いて回るのよ」
「葵さん……でしたか。彼女は、それに耐えられますか?」
「…………それは」
「彼女を四ノ宮の毒の中に引きずり込み、泥を被らせ、一生日陰で泣かせるのが――あなたの言う『真剣』なの?」
「愛しているなら、解放してあげなさい。……それとも、壊れると分かっていて、自分のエゴで道連れにするつもり?」
一言でも反論したら、全部崩れてしまいそうで。
(……全部、わかってるからや)
彼女の言葉は、俺が心の奥底に押し殺し、見ない振りをし続けてきた「罪悪感」を抉った。
「璋、彼女の為にも、何が最良なのかよく考えなさい。そして――お見合いを反故にすることは許しません」
「……それでも」
反射みたいに口を開きかける。
でも、続きが出てこない。
冷徹な宣告が、俺の体を縛った。
「わかりましたね」
俺が唇を噛み締めて黙り込むと、ばあちゃんはふっと表情を緩めた。
「なぁ……わざわざ、それだけ言うために来たんか?」
「……もちろん。可愛い孫の顔を見に来たのも、本当よ」
そう言って笑う彼女の顔は、俺を可愛がってくれる優しい祖母や。
だからこそ、余計に逃げられない。
出口のない迷路に放り込まれたような絶望感と共に、その部屋を後にした。
四ノ宮の重責。
一族のしがらみ。
葵を隣に置けば、眩しい笑顔はいつか「四ノ宮の影」に飲み込まれてしまう。
分かっていて連れて行くのは、愛やなくて、ただの俺の我儘なんやないか。
廊下の窓に映る自分の顔は、悔しさで歪んでいる。
自分の無力さが、これほどまでに惨めで、恐ろしかったことはない。
葵を守るために、俺が「悪役」にならなあかんのやろか。
彼女の未来を汚さへんために、この温もりを一度手放さなあかんのやろか。
(…………そんなん)
廊下の突き当たり。
微かに、でもはっきりと、葵の鈴を転がすような声が聞こえてくる。
(……あんなに笑うてる奴に、泥を被らせろ言うんか)
最愛の人の気配を感じながら、俺は拳が白くなるほど強く握りしめる。
「…………葵」
呼びかけた名前は、嘲笑うみたいに虚しく溶けて消えた。
(……ごめん、葵)
(……それでも、手放せるわけないやろ)
それでも――
俺は、葵を手放すと決めた。
守るために。
それなのに、内側だけが、焼けるみたいに熱い。
――理性が、追いつかん。
欲しくて、どうしようもない。
除夜の鐘さえ、遠くに霞んでいた。
四ノ宮の肩書きでも、鷹宮という家名でもない。
ただの「璋」という一人の男を、真っ直ぐに見つめて好きだと言う。
――それは、俺が人生で一番、喉から手が出るほど欲しかったものだった。
「葵、帰るで」
「璋さん?」
「あんな告白聞かされて、何もせんでいられると思う?」
葵が言葉の代わりに、凍えた指先で強く握ってきた。
焼き切れそうな理性を必死に繋ぎ止め、急いで嵐山のばあちゃんの家に帰る。
部屋の重い扉を閉めた瞬間、もう一秒も待てなかった。
葵の細い体を抱き上げると、彼女は縋るように俺の首に顔を埋めてくる。
触れ合う吐息と、震える肩。
それだけで、理性がほどけていく。
「……葵」
「……えっ……んっ!」
言いかけた葵の声を、奪うように唇で塞いだ。
冬の静寂の中に、かわいい拒絶の声が、ゆっくりと甘い熱を帯びた吐息に溶けていった。
まだぐっすり眠っている隣で、葵の髪をそっと撫でる。
「…………あかんわ」
真っ白なシーツから覗く葵の白い肩、昨夜俺が刻んだ赤い痕。
それを眺めているだけで、胸の奥が締め付けられ痺れる。
朝の光の中で、無防備に俺の腕に収まっているこの温もり。
俺がどれほど彼女を欲し、どれほど深く溺れているか、葵はまだ知らんのやろな。
(何もかも捨てて……このままずっと二人でいられたら、どれだけ楽やろな)
(……無理やって、分かってるけど)
「手に入れた途端、臆病になるとか……ないわ」
それでも。
届かないほどの小さな声で、彼女の耳元に囁く。
「……好きやで、葵」
この後、忍び寄る四ノ宮の影など微塵も感じさせないほど、嵐山の朝日は澄み切っていた。
***
案の定、あたしはまともに起き上がることができず、気づけばお昼前になっていた。
昨夜の熱を思い出すだけで顔が火照り、中々布団から出られずにいる。
そんなあたしを見て、璋さんは優しく笑っている幸せな目覚めだった。
昼食をいただいたあと、「せっかくやし」と紅葉さんが着付けてくれたのは、淡い桃色の晴れ着。
お酒の神様が祀られているという神社へ向かった。
境内にあるずらりと並んだ酒樽に魅入っていると、繋がれた手が引っ張られる。
「葵、はぐれんなよ」
上質な紺碧の生地が、彼の体躯を優雅に包む。
隣を歩く着物姿の璋さんは、いつもとは違う、抗いようのない「大人の色気」を放っている。
(……いつも以上にかっこよすぎて、目眩がする)
切れ長な瞳が、冬の澄んだ光を反射して鋭く、けれど甘く輝く。
(……このままで、いられますように)
旅館に帰り着いた瞬間、玄関に凛と立つ、あまりに見事な晴れ着姿の老婦人。
年齢を重ねてもなお、背筋が真っ直ぐで、静かな品格を纏っている。
「四ノ宮さま、お待ちしておりました」
ゆっくりとこちらを振り返った瞬間、隣にいた璋さんの肩がびくんと跳ねた。
「……うげっ」
「………………最悪や」
聞いたこともないような、地を這う呻き声。
あたしが驚いて彼を見上げると、眉間に深くシワを寄せ、絶望の表情を浮かべていた。
「……璋」
低く、落ち着いた老婦人の声。
彼女の視線が、すっとあたしを捉える。
慈愛に満ちた、けれど逃げ場を一切与えない冷徹な瞳に、思わず竦みそうになる。
「可愛らしいお嬢さんね」
まるで値踏みするような視線が、ゆっくりと全身をなぞった。
ぞくりと背筋に冷たい汗が流れる。
「あの子は、一度抱えたら離し方を知らないの」
「だからこそ、覚悟のない人を隣に置けないのよ」
まるで、笑顔のまま刃を向けられているみたいだった。
それだけ言って、璋さんに視線を戻すと、すっと奥へ消えていった。
「……璋さん、あの方は……お知り合い、ですか?」
あたしが震える声で尋ねても、彼は珍しく口を噤んだまま。
眉間に深い皺を刻み、ただ背筋を強張らせていた。
「あっくん、葵さん、おかえりやす〜」
紅葉さんが、けろっとした笑顔で駆け寄ってくる。
「……なんで、ばあちゃんがここにおんねん」
璋さんの恨めしげな呟き。
「だって、あっくんがこんなかいらしお嬢さんを連れてきはったんやもん。そら、いのちゃんに連絡せなあかんやろ?」
(いのちゃん……? さっきの老婦人は璋さんのお祖母様?)
「どういうネットワークなん……まじで……」
「うふふ、いのちゃんはなぁ『……あの子はね優しいのよ。だからこそ、壊れるの』って」
「あっくんのこと、ほんまに心配してはるんよ」
璋さんは短く吐息を漏らすと、観念したように場所を聞いた。
そして、紅葉さんの目の前だというのに、あたしを壊れ物のように強く抱き締めた。
「……璋さん?」
「…………ちょっと、チャージさせて」
大きな腕に、ぎゅっと力がこもる。
すがりつくような、切実な抱擁。
あんなに甘かった彼の体温が、今はどこか頼りなくて、ひどく冷たく感じた。
「……ありがとうな、葵。……ごめん、ちょっとだけ挨拶に行ってくるから」
「ええこで……待ってて」
そう言って、彼は一度も振り返ることなく、階段の上へと消えていった。
その背中が、やけに小さく見えて。
「ほな、葵さんはうちと一緒にお茶しましょか。……あっくんの子供の頃のアルバム、見ぃひん? 」
不穏な空気を纏ったまま去っていった璋さんの背中が気になるけれど。
彼の「本当のルーツ」を知りたいという抗えない好奇心に、あたしは小さく頷いた。
***
重厚な扉を前に、俺は一度深く、重苦しい空気を吸い込んだ。
気持ちを整えてノックをすると、中から聞き慣れた凛とした声が返ってきた。
「明けましておめでとう、あっくん」
四ノ宮いのは、悠然と座したまま俺を射抜くような視線を向けた。
「……明けましておめでとう……やなくて! なんでこんなとこにおんねん!」
「紅葉ちゃんに誘われたからよ。それ以外の理由があるかしら?」
「ちゃうやろ。……葵を見に来たんやろ」
核心を突くと、ばあちゃんは薄く笑みを浮かべた。
「わかっているなら、話が早いわね。……遊びなら良いけれど、本気なら許しません」
「葵とは真剣やで」
俺の言葉を、ばあちゃんは簡単に一蹴した。
「彼女には務まりません。あなたの“恋人ごっこ”の相手なら、十分でしょうけど。四ノ宮の妻という椅子は、その程度の覚悟では座れません」
「あなたは四ノ宮の人間です。伴侶になる方は、それ相応のご令嬢でないといけません」
口づけたコーヒーカップを置く音が、やけに大きく響く。
「……だから茉白ってか?」
腕を組み嘲笑するも、ばあちゃんの瞳は揺るがへん。
「そうです。宝生茉白(ほうしょう ましろ)は宝生グループのご令嬢。家柄も教養も、あなたを支えるにこれ以上ない逸材よ」
「あなたも、ご存知でしょう?」
「……見合いには行かへん」
「璋」
低く、けれど逃げ場を塞ぐような圧。
「あなた一個人の我儘ではありません。四ノ宮璋という重責を背負う以上、義務は付いて回るのよ」
「葵さん……でしたか。彼女は、それに耐えられますか?」
「…………それは」
「彼女を四ノ宮の毒の中に引きずり込み、泥を被らせ、一生日陰で泣かせるのが――あなたの言う『真剣』なの?」
「愛しているなら、解放してあげなさい。……それとも、壊れると分かっていて、自分のエゴで道連れにするつもり?」
一言でも反論したら、全部崩れてしまいそうで。
(……全部、わかってるからや)
彼女の言葉は、俺が心の奥底に押し殺し、見ない振りをし続けてきた「罪悪感」を抉った。
「璋、彼女の為にも、何が最良なのかよく考えなさい。そして――お見合いを反故にすることは許しません」
「……それでも」
反射みたいに口を開きかける。
でも、続きが出てこない。
冷徹な宣告が、俺の体を縛った。
「わかりましたね」
俺が唇を噛み締めて黙り込むと、ばあちゃんはふっと表情を緩めた。
「なぁ……わざわざ、それだけ言うために来たんか?」
「……もちろん。可愛い孫の顔を見に来たのも、本当よ」
そう言って笑う彼女の顔は、俺を可愛がってくれる優しい祖母や。
だからこそ、余計に逃げられない。
出口のない迷路に放り込まれたような絶望感と共に、その部屋を後にした。
四ノ宮の重責。
一族のしがらみ。
葵を隣に置けば、眩しい笑顔はいつか「四ノ宮の影」に飲み込まれてしまう。
分かっていて連れて行くのは、愛やなくて、ただの俺の我儘なんやないか。
廊下の窓に映る自分の顔は、悔しさで歪んでいる。
自分の無力さが、これほどまでに惨めで、恐ろしかったことはない。
葵を守るために、俺が「悪役」にならなあかんのやろか。
彼女の未来を汚さへんために、この温もりを一度手放さなあかんのやろか。
(…………そんなん)
廊下の突き当たり。
微かに、でもはっきりと、葵の鈴を転がすような声が聞こえてくる。
(……あんなに笑うてる奴に、泥を被らせろ言うんか)
最愛の人の気配を感じながら、俺は拳が白くなるほど強く握りしめる。
「…………葵」
呼びかけた名前は、嘲笑うみたいに虚しく溶けて消えた。
(……ごめん、葵)
(……それでも、手放せるわけないやろ)
それでも――
俺は、葵を手放すと決めた。
守るために。