あの公園で、君に会えたら

9話 助けられなかった命

その夜、救命救急センターはいつも以上に張り詰めていた。

理由のない違和感が、奈々の胸に小さく引っかかっている。
こういう感覚は、当たることがある。

無線が鳴った。

「刺創患者搬送中。腹部損傷、出血多量。ショック状態」

一瞬で空気が変わる。

ストレッチャーが搬入口を抜け、処置室へ運び込まれる。
腹部のガーゼは血で飽和し、滴り落ちる赤が床を濡らしていく。顔色は蒼白、四肢は冷たい。

「輸血急いで!ライン二本、取って!」

奈々は頷き、前腕へ視線を落とす。

末梢は虚脱している。血管は浮かない。
焦りが喉元までせり上がる。

呼吸を整える。

針先を、静かに進める。

わずかな手応え。
逆血を確認。固定。輸液を全開で流す。

そのときだった。

患者のまぶたが、かすかに震える。
唇が動く。

「……わ……か……」

空気が止まる。

若頭。

思考が一瞬揺れる。

だがすぐにモニターが鋭く鳴り響いた。

血圧測定不能。
脈拍消失。

「CPA!胸骨圧迫開始!」

圧迫、換気、薬剤投与。
血液製剤が次々に吊るされる。

誰も諦めていない。

それでも――

フラットになった波形は、もう戻ることはなかった。

「……21時47分。死亡確認」

宣告が落ちる。

奈々は静かに手袋を外した。

血を拭き取り、創部を整え、乱れた衣類を直す。
閉じかけたまぶたを、そっと下ろす。

何も言わない。

ただ、丁寧に整える。

その所作だけが、この時間を受け止めるための祈りだった。



重い足音が近づく。

黒いスーツの男たち。
そして、その中央に諒がいた。

視線が合う。

鋭さはない。
ただ、底の見えない静けさ。

諒はベッドの前で止まる。
白いシーツを見つめたまま、動かない。

やがて、低い声が落ちた。

「……俺のせいだ」

処置室の空気が凍る。

諒はシーツ越しに男の手を握る。

「ガキの頃から、世話になってた」

声が、わずかに掠れる。

「親父が忙しいとき、ずっと俺の側にいた」

その指先が、かすかに震えている。

気づかれまいとするように、強く握り直す。

「……俺の前で刺された」

喉が鳴る。

「俺が前に出てりゃ――」

言葉が、そこで途切れた。

続きが出ない。

ぽたり、と雫が落ちる。

声は出さない。
顔も歪めない。

けれど肩が、ほんのわずかに揺れている。

奈々の胸が強く締めつけられる。

看護師としては距離を保つべきだと分かっている。

それでも。

足が、前に出た。

「……諒」

名前を呼ぶ。

諒がゆっくり顔を上げる。

赤い目。
でも必死に崩れまいとしている。

「俺、強ぇと思ってた」

低い声。

「守れる側だって、思ってた」

一瞬だけ、乾いた笑み。

「守れなかった」

その言葉は、誰よりも自分を傷つけていた。

奈々は迷わなかった。

諒が握っているその手の上に、
自分の手を、そっと重ねる。

強くはない。

でも、逃げない重さ。

諒の体が、わずかに止まる。

奈々の鼓動が速くなる。
それでも、手は離さない。

「……諒のせいじゃない」

声が震える。

「きっとその人は、諒に生きてほしかったから前に出たんだと思う」

根拠はない。

それでも、そう信じたかった。

諒は目を閉じる。

深く、長く息を吐く。

そして。

ほんの一瞬だけ。

奈々の肩に額を預けた。

重み。
熱。
諒の呼吸が、近い。

すぐに離れる。

けれど奈々の手は、まだ重なったままだった。

守れなかった命。

救えなかった命。

救われた命。

胸の奥で、何かが静かに絡み合う。

これは同情じゃない。

情でもない。

もっと深くて、危うい何か。

奈々は気づいてしまう。

この人を、
ひとりにできないと

思ってしまったことに。
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