野いちご源氏物語 五一 浮舟(うきふね)
せっかくお越しになったのだから、宮様は今夜のうちにお帰りになるつもりはない。
でも、山荘の女房たちを気にしているのも落ち着かないから、隠れ家に女君を連れていこうとお考えなの。
その隠れ家は川の向こうにある。
宮様の乳母子の時方が事情に詳しいわ。
あらかじめ隠れ家に行かせておいた時方が、山荘にやって来た。
「ご準備は整っております」
と申し上げるので、右近は嫌な予感がする。
<いったいどうなさるのだろう>
と、雪遊びをした子どものように震えてしまう。
右近に何か言う暇も与えず、宮様は女君を抱きあげてお庭へお下りになる。
とっさに右近は侍従をお供につけた。
自分は山荘に残って、他の女房たちへの説明役に回るつもりよ。
いつも山荘から見ている頼りなげな小舟に、今日は自分が乗っている。
<どんな遠いところへ連れていかれてしまうのだろう>
浮舟の君は心細くなって、ぎゅっと宮様に抱きつく。
それを宮様はかわいらしいとお思いになる。
明け方の空に澄んだ月が浮かんで、水面を明るく照らす。
船頭が舟をしばらくとめて、
「これが有名な『橘の小島』でございます」
と名所を紹介した。
遠くから見ると、島というより大きな岩のようだけれど、常緑樹の葉が美しく茂っている。
「ご覧。こんな儚い小島に千年も根を張ってきたから、葉の緑も一段と深い色だ。ここで約束しよう。私たちの愛も永遠だと」
宮様がささやかれると、浮舟の君もめずらしい景色に感動してお返事する。
「この木の緑は永遠でしょうけれど、この舟の行く先や私の将来はどうなるか分かりません」
美しい月夜の川の上で可憐な女君が言うのだから、どんなお返事でも宮様は微笑んでしまわれる。
向こう岸に着くと、宮様はご自身で女君を舟から降ろされる。
そのままお入りになった家は、時方の伯父の別荘よ。
まだできたばかりで整いきってはいないけれど、田舎らしい素朴な家具が置いてある。
宮様はご覧になったことがないような雰囲気なの。
庭では、消えかけている雪の上に、また暗い空から雪が降ってきていた。
日が昇ると軒先のつららがきらきらと輝く。
明るいところで拝見する匂宮様はいっそうお美しい。
宇治までお越しになるときの、いつもの粗末な格好をなさっているのに。
浮舟の君は、上着を宮様が脱がせてしまわれたので、ほっそりとした肌着姿で座っている。
<こんな格好を隠しもせずに、輝くほど美しい宮様と向かいあっているなんて>
恥ずかしく思うけれど、隠れる場所もない。
白い肌着を五枚ほど重ねていて、袖口や裾のあたりまで上品に見える。
立派な上着をたくさん着ているよりも魅力的なの。
中君のこんなお姿はご覧になったことがないから、宮様はめずらしくてどきどきなさる。
急遽お供をした侍従も、なかなか美しい女房よ。
<右近だけでなく、この人にまですべて知られてしまった>
女君は苦しく思う。
宮様は、
「そなたは誰だ。秘密を漏らすなよ」
と優雅に口止めなさったから、侍従はうっとりしてしまう。
別荘の管理人は、主人の甥である時方をあれこれ世話しようとする。
時方は宮様がお越しになっていることを知らせず、あくまで自分が供を連れて都から出かけてきたふりをする。
宮様たちのお部屋の隣で、いかにも主人ぶった顔をして管理人の世間話を聞いているわ。
おふたりの邪魔をしないように、自分はほとんど話さない。
この状況がなんだかおかしくなってしまう。
「恐ろしい占いの結果が出たのだよ。都のなかを少し移動したくらいでは避けられない災いが起きると言われたから、はるばる宇治までやって来たのだ。別荘には他の人を近づけないでくれ」
と、笑いをこらえて深刻そうな顔で言った。
こうして人目のないところで、宮様は気楽に女君とお暮らしになる。
<薫の君が山荘に来たときは、姫とこんなふうに仲睦まじく過ごすのだろう>
と想像して恨み言をおっしゃる。
「薫の君のご正妻は帝の姫君ですよ。尊い女二の宮様を、それはそれは大切にしているようだ」
なんてこともお話しになる。
その一方で、詩の会の夜に耳にされた和歌のことは、もちろんお伝えにならない。
意地悪でいらっしゃること。
時方が果物などを差し上げて宮様のお世話をする。
「ここの管理人からずいぶん大切にされているではないか。そなたのことを私たち一行の主と思い込んでいるのだから、誰かの世話をしているところなど見られてはいけないよ」
宮様はからかいながら注意なさった。
侍従はどうしているかと言うと、あらまぁ、時方を気に入ったみたい。
ふたりで仲良くやっているわ。
雪が降り積もっていくなか、宮様は向こう岸の山荘をご覧になる。
霞の間からお庭の木だけがぼんやりと見えた。
山の方は夕日に照らされている。
昨夜の宇治までの大変さを、女君のお心を惹くようにお話しになる。
それから、別荘の粗末な硯をお出しになる。
「山の雪や川岸の氷を踏みしめてあなたに会いにきましたよ。どれほど険しい雪道でも戸惑ったりはしない。あなたの魅力には惑わされているけれど」
と宮様はお書きになった。
浮舟の君もお返事を書く。
「地面まで降ってきて川岸で凍る雪は立派ですこと。私が雪なら、空でも地面でもなく、中途半端なところで姿を消しそうです」
宮様は、
<私と薫の君との間でどっちつかずになっていることを『中途半端』と言ったのだろう。今は私といるというのに>
とご不快で、女君をお恨みになる。
<たしかにふらふらとしたことを書いてしまった>
浮舟の君は恥ずかしくなって紙を破る。
ただでさえお美しい宮様が、女君を他の男からご自分に振り向かせようとお言葉を尽くされるのだから、言いようもないほど魅力的でいらっしゃる。
でも、山荘の女房たちを気にしているのも落ち着かないから、隠れ家に女君を連れていこうとお考えなの。
その隠れ家は川の向こうにある。
宮様の乳母子の時方が事情に詳しいわ。
あらかじめ隠れ家に行かせておいた時方が、山荘にやって来た。
「ご準備は整っております」
と申し上げるので、右近は嫌な予感がする。
<いったいどうなさるのだろう>
と、雪遊びをした子どものように震えてしまう。
右近に何か言う暇も与えず、宮様は女君を抱きあげてお庭へお下りになる。
とっさに右近は侍従をお供につけた。
自分は山荘に残って、他の女房たちへの説明役に回るつもりよ。
いつも山荘から見ている頼りなげな小舟に、今日は自分が乗っている。
<どんな遠いところへ連れていかれてしまうのだろう>
浮舟の君は心細くなって、ぎゅっと宮様に抱きつく。
それを宮様はかわいらしいとお思いになる。
明け方の空に澄んだ月が浮かんで、水面を明るく照らす。
船頭が舟をしばらくとめて、
「これが有名な『橘の小島』でございます」
と名所を紹介した。
遠くから見ると、島というより大きな岩のようだけれど、常緑樹の葉が美しく茂っている。
「ご覧。こんな儚い小島に千年も根を張ってきたから、葉の緑も一段と深い色だ。ここで約束しよう。私たちの愛も永遠だと」
宮様がささやかれると、浮舟の君もめずらしい景色に感動してお返事する。
「この木の緑は永遠でしょうけれど、この舟の行く先や私の将来はどうなるか分かりません」
美しい月夜の川の上で可憐な女君が言うのだから、どんなお返事でも宮様は微笑んでしまわれる。
向こう岸に着くと、宮様はご自身で女君を舟から降ろされる。
そのままお入りになった家は、時方の伯父の別荘よ。
まだできたばかりで整いきってはいないけれど、田舎らしい素朴な家具が置いてある。
宮様はご覧になったことがないような雰囲気なの。
庭では、消えかけている雪の上に、また暗い空から雪が降ってきていた。
日が昇ると軒先のつららがきらきらと輝く。
明るいところで拝見する匂宮様はいっそうお美しい。
宇治までお越しになるときの、いつもの粗末な格好をなさっているのに。
浮舟の君は、上着を宮様が脱がせてしまわれたので、ほっそりとした肌着姿で座っている。
<こんな格好を隠しもせずに、輝くほど美しい宮様と向かいあっているなんて>
恥ずかしく思うけれど、隠れる場所もない。
白い肌着を五枚ほど重ねていて、袖口や裾のあたりまで上品に見える。
立派な上着をたくさん着ているよりも魅力的なの。
中君のこんなお姿はご覧になったことがないから、宮様はめずらしくてどきどきなさる。
急遽お供をした侍従も、なかなか美しい女房よ。
<右近だけでなく、この人にまですべて知られてしまった>
女君は苦しく思う。
宮様は、
「そなたは誰だ。秘密を漏らすなよ」
と優雅に口止めなさったから、侍従はうっとりしてしまう。
別荘の管理人は、主人の甥である時方をあれこれ世話しようとする。
時方は宮様がお越しになっていることを知らせず、あくまで自分が供を連れて都から出かけてきたふりをする。
宮様たちのお部屋の隣で、いかにも主人ぶった顔をして管理人の世間話を聞いているわ。
おふたりの邪魔をしないように、自分はほとんど話さない。
この状況がなんだかおかしくなってしまう。
「恐ろしい占いの結果が出たのだよ。都のなかを少し移動したくらいでは避けられない災いが起きると言われたから、はるばる宇治までやって来たのだ。別荘には他の人を近づけないでくれ」
と、笑いをこらえて深刻そうな顔で言った。
こうして人目のないところで、宮様は気楽に女君とお暮らしになる。
<薫の君が山荘に来たときは、姫とこんなふうに仲睦まじく過ごすのだろう>
と想像して恨み言をおっしゃる。
「薫の君のご正妻は帝の姫君ですよ。尊い女二の宮様を、それはそれは大切にしているようだ」
なんてこともお話しになる。
その一方で、詩の会の夜に耳にされた和歌のことは、もちろんお伝えにならない。
意地悪でいらっしゃること。
時方が果物などを差し上げて宮様のお世話をする。
「ここの管理人からずいぶん大切にされているではないか。そなたのことを私たち一行の主と思い込んでいるのだから、誰かの世話をしているところなど見られてはいけないよ」
宮様はからかいながら注意なさった。
侍従はどうしているかと言うと、あらまぁ、時方を気に入ったみたい。
ふたりで仲良くやっているわ。
雪が降り積もっていくなか、宮様は向こう岸の山荘をご覧になる。
霞の間からお庭の木だけがぼんやりと見えた。
山の方は夕日に照らされている。
昨夜の宇治までの大変さを、女君のお心を惹くようにお話しになる。
それから、別荘の粗末な硯をお出しになる。
「山の雪や川岸の氷を踏みしめてあなたに会いにきましたよ。どれほど険しい雪道でも戸惑ったりはしない。あなたの魅力には惑わされているけれど」
と宮様はお書きになった。
浮舟の君もお返事を書く。
「地面まで降ってきて川岸で凍る雪は立派ですこと。私が雪なら、空でも地面でもなく、中途半端なところで姿を消しそうです」
宮様は、
<私と薫の君との間でどっちつかずになっていることを『中途半端』と言ったのだろう。今は私といるというのに>
とご不快で、女君をお恨みになる。
<たしかにふらふらとしたことを書いてしまった>
浮舟の君は恥ずかしくなって紙を破る。
ただでさえお美しい宮様が、女君を他の男からご自分に振り向かせようとお言葉を尽くされるのだから、言いようもないほど魅力的でいらっしゃる。