野いちご源氏物語 五一 浮舟(うきふね)
一方、薫の君は、浮舟の君のお引越しを四月十日とお決めになった。
女君は、「そう仰せなら」という気にはもちろんなれない。
<この身をどうしたらよいのだろう>
まるで水に浮かんでさすらっているような心細さを感じる。
<都の母君のところで、しばらくいろいろ考えたい>
さりげなく母君にお願いしてみたけれど、あいにく都の自宅は、異父妹の出産間近で大騒ぎなの。
少将様と結婚したこの娘は、父親に溺愛されていて、安産祈願のためにたくさんの僧侶が集められている。
そんなやかましい自宅では落ち着かないだろうと、母君が宇治の山荘にやって来た。
お迎えした乳母が浮かれて言う。
「もうすぐ姫様はお引越しでございますからね。薫の君は女房たちの着物までお届けくださったのですよ。何もかも立派にお支度したいと思っておりますが、私ひとりではどうなることやら」
謙遜しながらも満面の笑みなの。
浮舟の君が薫の君のお屋敷に移らない、なんて可能性はまったく考えていない。
<このまま宮様のお迎えが来てしまったら、乳母は驚いて私を守ろうとするだろう。その騒ぎが世間に知られ、『宇治の女は薫の君と匂宮様の両方と関係を持っていたらしい』などと噂されたら大問題になる。私は世間に笑われ、乳母や女房たちはあきれかえるだろう。
かといって、宮様のお迎えからうまく逃げられるとも思えない。今日もお手紙が届いたのだ。『どこに隠れたとしても私はあなたを探し出す。しかし、そんなことをすれば私たちの関係はおもしろおかしく噂されるだろう。やはりここは、私が用意した家に素直にお移りなさい』と宮様はお書きになっていた。どうしたらよいのだろう>
すっかり気分が悪くなって寝込んでいる浮舟の君を見て、母君は驚く。
「どうしてこんなふうに青白くやせてしまわれたのです」
とおろおろするので、乳母も困り顔で言う。
「ここ数日、こんなご様子でいらっしゃるのです。ちょっとした物も召し上がらず、ぐったりなさっています」
「原因が分かりませんね。妖怪か何かが憑りついているのかもしれない。石山寺へのお参りは月の障りで中止にしたのだから、ご懐妊ではないでしょうし」
浮舟の君はいたたまれなくなって目を伏せている。
日が暮れて月が明るく輝く。
<宮様に向こう岸の別荘に連れていかれたときも、明け方の空に月が浮かんでいた>
あの夢のような出来事を思い出して浮舟の君は泣き、泣いてしまった自分を叱る。
母君は娘の気分を紛らわせようとしたのか、弁の尼を呼んで昔話を始めた。
<都に迎えられるお祝いを尼君の口からも聞けば、少しは気分がよくなるだろう>
と期待したのかもしれないわね。
でも、弁の尼は薫の君と同じで、亡き大君が一番大切なの。
その思い出話ばかりする。
亡くなったいきさつまで話したあげく、
「もし生きていらっしゃれば、きっと薫の君の奥様におなりでしたでしょうに。大君も中君も、ここでは心細いお暮らしをなさっていましたが、今ごろ都で幸せにお暮らしだったはずです」
とまで言った。
母君はおもしろくない。
<私の姫なんて存在しないような言い方をする。大君や中君と同列には語れないということか。姫だって亡き八の宮様のお子だというのに。尼君は年寄りだから今の状況がよく分かっていないらしい。姫はもうすぐ薫の君に迎えられて、都の華やかなお屋敷で暮らすのだ。薫の君のご愛情が続けば、中君にも劣らないほどの幸せを掴めるはず>
いらだちを抑えて弁の尼に言う。
「この娘のことではさんざん悩んで苦労いたしましたが、やっと一安心というところまで来ました。薫の君が都にお迎えくださるそうですから、そうなれば私ももうこちらの山荘にはめったに参りませんでしょう。こういう機会に尼君の昔話をもっと承っておきませんと」
弁の尼は悪気があったわけではないけれど、はっとして言いつくろった。
「縁起の悪い尼姿ですから、遠慮してこちらの姫君とはあまりお付き合いいたしませんでしたけれど、いつも姫君のことはご心配しておりました。こんな寂しい山里暮らしはお心細かったでしょう。都に上られると聞いてうれしく存じます。以前も申しましたように、あの重々しい薫の君が女性をお探しになるなんて、よほど深いお気持ちに違いありません。安心なされませ」
「ええ、まぁこの先のことは分かりませんけれど、今はご愛情が深いようで安心しております。何もかも尼君がご仲介してくださったおかげです。中君もお力添えくださいましたが、二条の院はどうにも安心できませんで。ひやりとすることが起きて、あのときはもう『どこに連れていっても幸せになれない子なのだ』と悲しくなりました」
なんとなく想像した弁の尼は苦笑いする。
「あちらの宮様はたいへんな好色でいらっしゃいますからね。それ以外はすばらしい方なのですけれど。若い女房たちも、まともな感覚のある人はお仕えしにくいようです。『もし宮様のお手がついて、中君に憎まれるようなことになったら困る』と申すようで」
浮舟の君は伏したまま聞いている。
<宮様が浮気をなされば、中君は相手が女房でもお憎みになる。まして異母妹の私が相手だったら>
考えるだけでつらい。
「まぁ、嫌だ。やはりそういう宮様でいらしたのですね。娘は危ないところでした。薫の君の場合は、ご正妻が私たちと血縁関係ではないので、娘を差し上げる決心もついたのです。帝の姫君に対して恐れ多いことですけれど、たとえご正妻から憎まれても気にする必要はないと開き直っております。
ですが宮様ではそうはまいりません。もし娘が中君に憎まれるようなことがあれば、どれほど娘がかわいくても親子の縁を切ります」
母君の何気ない一言が、浮舟の君の心臓をしめつける。
<やはりもう死ぬしかない。このままでは母君に知られてしまう>
宇治川の水の音がひときわ大きく響いてくる。
「やかましい川音ですこと。もっと優雅に流れてもよいでしょうに。こんな荒々しい山里で半年も我慢させなさったのですから、薫の君が娘をかわいそうに思ってくださるのも当然です」
母君は得意顔で言った。
「本当にここの川は流れが速くて」
「先日も幼い子どもが落ちて亡くなったそうですよ」
女房たちのおしゃべりを聞いて、浮舟の君は<あぁ、それがよい>と思う。
<私が行方不明になれば、宮様も薫の君も母君も、しばらくの間は悲しんでくださるだろう。しかし永遠にお苦しめするわけではない。そのうちきっと私のことなどお忘れになる。もし私がここで死なず、世間の笑い者になればどうなるか。私が生きている限り皆様をお苦しめすることになる>
完璧な解決方法があったとうれしく思う一方で、死ぬのは悲しい。
とくに母君がどれほどお嘆きになるかと、寝たふりをしながら想像する。
母君はそろそろ都の自宅へ帰らなければならない。
「ご病気回復のお祈りをさせるように。効きそうなおまじないもしておくれ」
と乳母に指示をする。
<母君には申し訳ないけれど、これはふつうの病気ではなく恋わずらいだ。宮様への恋心を消すお祈りでなければ効かないだろう>
浮舟の君の気持ちなど知らず、母君はあれこれと乳母に注意していく。
「女房が足りないのではないか。都の薫の君のお屋敷に移るのだから、それにふさわしい女房をもっと探しておくれ。尊い内親王様であられるご正妻は、基本的にはおっとりなさっているだろう。揉めるとしたら女房同士だ。だいたいそこから火がついて大事になる。そなたは女房たちによく目配りして、なるべく控えめにしているように言っておくれ」
それから、
「出産の近い娘のことも心配だから」
と言って、自宅に帰ろうとする。
<これが最後になってしまう>
浮舟の君は母君にすがった。
「具合が悪くて、母君がいらっしゃらないと心細いのです。私も連れて帰ってくださいませんか」
「そうしてあげたいけれど、あちらは出産前で大騒ぎですからね。それに、あなたの女房たちは引っ越しの準備をしないといけないでしょう。狭苦しい家では着物を縫う場所にさえ困りますよ。
何も心配いりません。あなたが都にお移りになったら、すぐに会いにいきます。どんなに遠いところだとしても必ず参ります。ご立派な奥様になったあなたに、こんなみすぼらしい母が訪ねていっては気の毒だけれど」
と、母君は泣きながら言う。
女君は、「そう仰せなら」という気にはもちろんなれない。
<この身をどうしたらよいのだろう>
まるで水に浮かんでさすらっているような心細さを感じる。
<都の母君のところで、しばらくいろいろ考えたい>
さりげなく母君にお願いしてみたけれど、あいにく都の自宅は、異父妹の出産間近で大騒ぎなの。
少将様と結婚したこの娘は、父親に溺愛されていて、安産祈願のためにたくさんの僧侶が集められている。
そんなやかましい自宅では落ち着かないだろうと、母君が宇治の山荘にやって来た。
お迎えした乳母が浮かれて言う。
「もうすぐ姫様はお引越しでございますからね。薫の君は女房たちの着物までお届けくださったのですよ。何もかも立派にお支度したいと思っておりますが、私ひとりではどうなることやら」
謙遜しながらも満面の笑みなの。
浮舟の君が薫の君のお屋敷に移らない、なんて可能性はまったく考えていない。
<このまま宮様のお迎えが来てしまったら、乳母は驚いて私を守ろうとするだろう。その騒ぎが世間に知られ、『宇治の女は薫の君と匂宮様の両方と関係を持っていたらしい』などと噂されたら大問題になる。私は世間に笑われ、乳母や女房たちはあきれかえるだろう。
かといって、宮様のお迎えからうまく逃げられるとも思えない。今日もお手紙が届いたのだ。『どこに隠れたとしても私はあなたを探し出す。しかし、そんなことをすれば私たちの関係はおもしろおかしく噂されるだろう。やはりここは、私が用意した家に素直にお移りなさい』と宮様はお書きになっていた。どうしたらよいのだろう>
すっかり気分が悪くなって寝込んでいる浮舟の君を見て、母君は驚く。
「どうしてこんなふうに青白くやせてしまわれたのです」
とおろおろするので、乳母も困り顔で言う。
「ここ数日、こんなご様子でいらっしゃるのです。ちょっとした物も召し上がらず、ぐったりなさっています」
「原因が分かりませんね。妖怪か何かが憑りついているのかもしれない。石山寺へのお参りは月の障りで中止にしたのだから、ご懐妊ではないでしょうし」
浮舟の君はいたたまれなくなって目を伏せている。
日が暮れて月が明るく輝く。
<宮様に向こう岸の別荘に連れていかれたときも、明け方の空に月が浮かんでいた>
あの夢のような出来事を思い出して浮舟の君は泣き、泣いてしまった自分を叱る。
母君は娘の気分を紛らわせようとしたのか、弁の尼を呼んで昔話を始めた。
<都に迎えられるお祝いを尼君の口からも聞けば、少しは気分がよくなるだろう>
と期待したのかもしれないわね。
でも、弁の尼は薫の君と同じで、亡き大君が一番大切なの。
その思い出話ばかりする。
亡くなったいきさつまで話したあげく、
「もし生きていらっしゃれば、きっと薫の君の奥様におなりでしたでしょうに。大君も中君も、ここでは心細いお暮らしをなさっていましたが、今ごろ都で幸せにお暮らしだったはずです」
とまで言った。
母君はおもしろくない。
<私の姫なんて存在しないような言い方をする。大君や中君と同列には語れないということか。姫だって亡き八の宮様のお子だというのに。尼君は年寄りだから今の状況がよく分かっていないらしい。姫はもうすぐ薫の君に迎えられて、都の華やかなお屋敷で暮らすのだ。薫の君のご愛情が続けば、中君にも劣らないほどの幸せを掴めるはず>
いらだちを抑えて弁の尼に言う。
「この娘のことではさんざん悩んで苦労いたしましたが、やっと一安心というところまで来ました。薫の君が都にお迎えくださるそうですから、そうなれば私ももうこちらの山荘にはめったに参りませんでしょう。こういう機会に尼君の昔話をもっと承っておきませんと」
弁の尼は悪気があったわけではないけれど、はっとして言いつくろった。
「縁起の悪い尼姿ですから、遠慮してこちらの姫君とはあまりお付き合いいたしませんでしたけれど、いつも姫君のことはご心配しておりました。こんな寂しい山里暮らしはお心細かったでしょう。都に上られると聞いてうれしく存じます。以前も申しましたように、あの重々しい薫の君が女性をお探しになるなんて、よほど深いお気持ちに違いありません。安心なされませ」
「ええ、まぁこの先のことは分かりませんけれど、今はご愛情が深いようで安心しております。何もかも尼君がご仲介してくださったおかげです。中君もお力添えくださいましたが、二条の院はどうにも安心できませんで。ひやりとすることが起きて、あのときはもう『どこに連れていっても幸せになれない子なのだ』と悲しくなりました」
なんとなく想像した弁の尼は苦笑いする。
「あちらの宮様はたいへんな好色でいらっしゃいますからね。それ以外はすばらしい方なのですけれど。若い女房たちも、まともな感覚のある人はお仕えしにくいようです。『もし宮様のお手がついて、中君に憎まれるようなことになったら困る』と申すようで」
浮舟の君は伏したまま聞いている。
<宮様が浮気をなされば、中君は相手が女房でもお憎みになる。まして異母妹の私が相手だったら>
考えるだけでつらい。
「まぁ、嫌だ。やはりそういう宮様でいらしたのですね。娘は危ないところでした。薫の君の場合は、ご正妻が私たちと血縁関係ではないので、娘を差し上げる決心もついたのです。帝の姫君に対して恐れ多いことですけれど、たとえご正妻から憎まれても気にする必要はないと開き直っております。
ですが宮様ではそうはまいりません。もし娘が中君に憎まれるようなことがあれば、どれほど娘がかわいくても親子の縁を切ります」
母君の何気ない一言が、浮舟の君の心臓をしめつける。
<やはりもう死ぬしかない。このままでは母君に知られてしまう>
宇治川の水の音がひときわ大きく響いてくる。
「やかましい川音ですこと。もっと優雅に流れてもよいでしょうに。こんな荒々しい山里で半年も我慢させなさったのですから、薫の君が娘をかわいそうに思ってくださるのも当然です」
母君は得意顔で言った。
「本当にここの川は流れが速くて」
「先日も幼い子どもが落ちて亡くなったそうですよ」
女房たちのおしゃべりを聞いて、浮舟の君は<あぁ、それがよい>と思う。
<私が行方不明になれば、宮様も薫の君も母君も、しばらくの間は悲しんでくださるだろう。しかし永遠にお苦しめするわけではない。そのうちきっと私のことなどお忘れになる。もし私がここで死なず、世間の笑い者になればどうなるか。私が生きている限り皆様をお苦しめすることになる>
完璧な解決方法があったとうれしく思う一方で、死ぬのは悲しい。
とくに母君がどれほどお嘆きになるかと、寝たふりをしながら想像する。
母君はそろそろ都の自宅へ帰らなければならない。
「ご病気回復のお祈りをさせるように。効きそうなおまじないもしておくれ」
と乳母に指示をする。
<母君には申し訳ないけれど、これはふつうの病気ではなく恋わずらいだ。宮様への恋心を消すお祈りでなければ効かないだろう>
浮舟の君の気持ちなど知らず、母君はあれこれと乳母に注意していく。
「女房が足りないのではないか。都の薫の君のお屋敷に移るのだから、それにふさわしい女房をもっと探しておくれ。尊い内親王様であられるご正妻は、基本的にはおっとりなさっているだろう。揉めるとしたら女房同士だ。だいたいそこから火がついて大事になる。そなたは女房たちによく目配りして、なるべく控えめにしているように言っておくれ」
それから、
「出産の近い娘のことも心配だから」
と言って、自宅に帰ろうとする。
<これが最後になってしまう>
浮舟の君は母君にすがった。
「具合が悪くて、母君がいらっしゃらないと心細いのです。私も連れて帰ってくださいませんか」
「そうしてあげたいけれど、あちらは出産前で大騒ぎですからね。それに、あなたの女房たちは引っ越しの準備をしないといけないでしょう。狭苦しい家では着物を縫う場所にさえ困りますよ。
何も心配いりません。あなたが都にお移りになったら、すぐに会いにいきます。どんなに遠いところだとしても必ず参ります。ご立派な奥様になったあなたに、こんなみすぼらしい母が訪ねていっては気の毒だけれど」
と、母君は泣きながら言う。