野いちご源氏物語 五一 浮舟(うきふね)
夜はみるみるうちに明けていく。
宮様のお供の大内記がお庭先に来て、咳払いでご出発を急かす。
右近はおふたりが休んでいらっしゃる部屋に上がって、声をおかけした。
宮様は帰りがたくていらっしゃる。
<一晩では足りない。ここで帰れば、次に会えるのはいったいいつになることか。都で騒ぎになるだろうが、今日だけはここにいよう。楽しいことも苦しいことも、生きているうちにしか味わえないのだから>
今都に帰ることは死ぬことと同じだとまでお思いになる。
右近を近くにお呼びになって、正直にお話しになった。
「薫の君ではなくて驚いただろう。何を言っているのだと思うかもしれないが、今日は帰りたくない。私の供に、どこか近くに隠れておくよう伝えてほしい。供のなかに乳母子の時方という者がいる。時方には都へ戻るよう言っておくれ。私の居場所を誰かに聞かれたら、『こっそり山寺に出かけた』とでも答えておくように、と」
右近は動揺する。
薫の君だと思い込んで、別の男君を山荘に入れてしまったのだもの。
自分の責任だけれど、
<今さら騒いでもどうしようもない。宮様が二条の院で姫様をお気に召したところから、この逃れられない運命は始まっていたのだ>
と心を落ち着かせる。
「今日、姫様は石山寺にお出かけになるご予定なのです。都のお母君が乗り物を寄越してくださることになっております。それをどうなさるおつもりですか。昨夜のことについては今さら何も申し上げません。ただ、日が悪うございます。今日のところは一旦お帰りになりまして、もし姫様へのご愛情がおありでしたら、またあらためて」
うまく都へ帰そうとするつもりだなと、宮様は癪に思われた。
「初めて姫に会ったときから、私はずっと正気を失っている。世間の非難など気にならない。それほど一途な思いなのだ。姫より自分の世間体が大事なら、こんなところまで出かけてくるはずがないだろう。
母君からのお迎えが来たら、占いで急に謹慎しなければならなくなったとでも言えばよい。世間体を大事にするそなたは、姫や私のために、このことを誰にも知られないようにしておくれ。それ以外のことは何も気にしなくてよい」
宮様は浮舟の君の想像以上のかわいらしさに、もう夢中になっていらっしゃるの。
右近はあきれて部屋から出た。
先ほど咳払いした大内記に頼む。
「『帰りたくない』などと、とんでもないことを宮様はおっしゃっています。あなたからも何か申し上げなさってください。そもそもどうして、恐れ多い宮様をこんな田舎までお連れしてしまったのですか。宮様が無茶を仰せになったときは、お止めするのがご家来のお役目でしょう。山道で危険な目に遭われたらどうなさるおつもりだったのです」
若い女房に叱られてしまって、
<あぁ、面倒なことになった>
と大内記は立ちつくしている。
右近は他のお供を見まわして、
「時方とおっしゃるのはどなたですか」
と尋ねた。
宮様からのご伝言を聞くと、時方は皮肉っぽく笑う。
「そんなふうに厳しく叱られては、言われずとも都へ逃げ帰らせていただきますよ。あなたにはお分かりにならないだろうが、私たちは宮様の一途なお気持ちに感動してお供をしたのです。世間に知られれば自分の立場が悪くなることなど構いもせずね。
さて、警備の男たちがそろそろこちらへ来そうだ。もう宮様をご出発おさせするのは無理ですね」
そう言うと、自分たちだけでさっさと出ていってしまった。
<こうなったら腹をくくるしかない。しかし、誰にも知られないようにとおっしゃっても、いったいどうしたら>
右近は困ってしまう。
まずは起きはじめた他の女房たちが問題よ。
「薫の君は訳あって誰にも会いたくないと仰せです。どうやら昨夜、山道で恐ろしい目に遭われたみたいで」
と言うと、女房たちは震えあがった。
「まぁ、恐ろしい。あの山はたいそう危ないと申しますものね。いつもこっそりお越しになりますから、護衛が足りなかったのでしょう」
口々に騒ぎはじめるので、あわてて右近は止める。
「静かに、静かに。下働きの者に聞こえたら大変です」
と言いながら、そんな嘘をついている自分が恐ろしくなった。
「それから、姫様は急に謹慎なさることになりました。夢見が悪くていらっしゃったから」
と右近は続ける。
何も知らない女房たちは、
「では今日はお出かけになれませんね。残念だこと」
とがっかりしている。
<これで他の女房を遠ざけることはできても、もし薫の君からお使者が来たらどうしよう。女房たちに不審に思われてしまう。長谷寺の観音様、どうか無事に今日一日が済みますように>
もはや右近は祈るしかない。
日が高くなったので、右近は窓を開けておふたりのお世話をする。
お部屋の周りの簾はすべて下ろしてしまって、「謹慎中」と書いた紙を貼った。
もし母君みずから迎えにきたとしても、さすがにこれでは近づけないはずよ。
ここまでしてから、右近は洗面のお水を運んできた。
まず宮様のお世話をしようとすると、
「先に姫から」
と宮様はお譲りになる。
匂宮様は薫の君よりも情熱的でいらっしゃる。
宮様のお言葉に、浮舟の君はついどきどきしてしまう。
<『少しでもあなたと離れたら私は死んでしまう』なんてこともおっしゃった。こういう方をご愛情が深いと言うのかしら。いえ、いけない。これが噂になったら、中君はどうお思いになるか>
まさか中君の異母妹だと打ち明けられるはずもないのを、宮様はお責めになる。
「いつまでも名乗ってくれないから悲しいではないか。正直におっしゃい。身分が低くても気にする必要はない。私はますますあなたを愛すだけだ」
このご質問には答えないけれど、他のことはかわいらしくお返事する。
宮様はこの上なく愛しいとご覧になる。
しばらくすると母君からのお迎えが到着した。
浮舟の君や女房たちのための乗り物に、荒々しい護衛の男たちがお供している。
母君自身は来ていない。
右近は悩む。
<『薫の君がお越しになっているので』と言った方がよいだろうか。でも、お母君に嘘がばれたら、どうしてそんな嘘をついたのだとかえって怪しまれることになる。薫の君ほどのご身分の方の行動は、自然と耳に入ってくるものだから>
結局、無難な予定変更のお手紙を書いた。
「昨夜から月の障りが始まり、お参りはできないと残念がっていらっしゃいます。今朝の夢見もお悪かったようですので、今日は一日ご謹慎なさいます。かえすがえすも残念なことで、ご不運が重なっておられるように拝見いたします」
お迎えの人たちには食事を出して帰らせる。
宮様のお供の大内記がお庭先に来て、咳払いでご出発を急かす。
右近はおふたりが休んでいらっしゃる部屋に上がって、声をおかけした。
宮様は帰りがたくていらっしゃる。
<一晩では足りない。ここで帰れば、次に会えるのはいったいいつになることか。都で騒ぎになるだろうが、今日だけはここにいよう。楽しいことも苦しいことも、生きているうちにしか味わえないのだから>
今都に帰ることは死ぬことと同じだとまでお思いになる。
右近を近くにお呼びになって、正直にお話しになった。
「薫の君ではなくて驚いただろう。何を言っているのだと思うかもしれないが、今日は帰りたくない。私の供に、どこか近くに隠れておくよう伝えてほしい。供のなかに乳母子の時方という者がいる。時方には都へ戻るよう言っておくれ。私の居場所を誰かに聞かれたら、『こっそり山寺に出かけた』とでも答えておくように、と」
右近は動揺する。
薫の君だと思い込んで、別の男君を山荘に入れてしまったのだもの。
自分の責任だけれど、
<今さら騒いでもどうしようもない。宮様が二条の院で姫様をお気に召したところから、この逃れられない運命は始まっていたのだ>
と心を落ち着かせる。
「今日、姫様は石山寺にお出かけになるご予定なのです。都のお母君が乗り物を寄越してくださることになっております。それをどうなさるおつもりですか。昨夜のことについては今さら何も申し上げません。ただ、日が悪うございます。今日のところは一旦お帰りになりまして、もし姫様へのご愛情がおありでしたら、またあらためて」
うまく都へ帰そうとするつもりだなと、宮様は癪に思われた。
「初めて姫に会ったときから、私はずっと正気を失っている。世間の非難など気にならない。それほど一途な思いなのだ。姫より自分の世間体が大事なら、こんなところまで出かけてくるはずがないだろう。
母君からのお迎えが来たら、占いで急に謹慎しなければならなくなったとでも言えばよい。世間体を大事にするそなたは、姫や私のために、このことを誰にも知られないようにしておくれ。それ以外のことは何も気にしなくてよい」
宮様は浮舟の君の想像以上のかわいらしさに、もう夢中になっていらっしゃるの。
右近はあきれて部屋から出た。
先ほど咳払いした大内記に頼む。
「『帰りたくない』などと、とんでもないことを宮様はおっしゃっています。あなたからも何か申し上げなさってください。そもそもどうして、恐れ多い宮様をこんな田舎までお連れしてしまったのですか。宮様が無茶を仰せになったときは、お止めするのがご家来のお役目でしょう。山道で危険な目に遭われたらどうなさるおつもりだったのです」
若い女房に叱られてしまって、
<あぁ、面倒なことになった>
と大内記は立ちつくしている。
右近は他のお供を見まわして、
「時方とおっしゃるのはどなたですか」
と尋ねた。
宮様からのご伝言を聞くと、時方は皮肉っぽく笑う。
「そんなふうに厳しく叱られては、言われずとも都へ逃げ帰らせていただきますよ。あなたにはお分かりにならないだろうが、私たちは宮様の一途なお気持ちに感動してお供をしたのです。世間に知られれば自分の立場が悪くなることなど構いもせずね。
さて、警備の男たちがそろそろこちらへ来そうだ。もう宮様をご出発おさせするのは無理ですね」
そう言うと、自分たちだけでさっさと出ていってしまった。
<こうなったら腹をくくるしかない。しかし、誰にも知られないようにとおっしゃっても、いったいどうしたら>
右近は困ってしまう。
まずは起きはじめた他の女房たちが問題よ。
「薫の君は訳あって誰にも会いたくないと仰せです。どうやら昨夜、山道で恐ろしい目に遭われたみたいで」
と言うと、女房たちは震えあがった。
「まぁ、恐ろしい。あの山はたいそう危ないと申しますものね。いつもこっそりお越しになりますから、護衛が足りなかったのでしょう」
口々に騒ぎはじめるので、あわてて右近は止める。
「静かに、静かに。下働きの者に聞こえたら大変です」
と言いながら、そんな嘘をついている自分が恐ろしくなった。
「それから、姫様は急に謹慎なさることになりました。夢見が悪くていらっしゃったから」
と右近は続ける。
何も知らない女房たちは、
「では今日はお出かけになれませんね。残念だこと」
とがっかりしている。
<これで他の女房を遠ざけることはできても、もし薫の君からお使者が来たらどうしよう。女房たちに不審に思われてしまう。長谷寺の観音様、どうか無事に今日一日が済みますように>
もはや右近は祈るしかない。
日が高くなったので、右近は窓を開けておふたりのお世話をする。
お部屋の周りの簾はすべて下ろしてしまって、「謹慎中」と書いた紙を貼った。
もし母君みずから迎えにきたとしても、さすがにこれでは近づけないはずよ。
ここまでしてから、右近は洗面のお水を運んできた。
まず宮様のお世話をしようとすると、
「先に姫から」
と宮様はお譲りになる。
匂宮様は薫の君よりも情熱的でいらっしゃる。
宮様のお言葉に、浮舟の君はついどきどきしてしまう。
<『少しでもあなたと離れたら私は死んでしまう』なんてこともおっしゃった。こういう方をご愛情が深いと言うのかしら。いえ、いけない。これが噂になったら、中君はどうお思いになるか>
まさか中君の異母妹だと打ち明けられるはずもないのを、宮様はお責めになる。
「いつまでも名乗ってくれないから悲しいではないか。正直におっしゃい。身分が低くても気にする必要はない。私はますますあなたを愛すだけだ」
このご質問には答えないけれど、他のことはかわいらしくお返事する。
宮様はこの上なく愛しいとご覧になる。
しばらくすると母君からのお迎えが到着した。
浮舟の君や女房たちのための乗り物に、荒々しい護衛の男たちがお供している。
母君自身は来ていない。
右近は悩む。
<『薫の君がお越しになっているので』と言った方がよいだろうか。でも、お母君に嘘がばれたら、どうしてそんな嘘をついたのだとかえって怪しまれることになる。薫の君ほどのご身分の方の行動は、自然と耳に入ってくるものだから>
結局、無難な予定変更のお手紙を書いた。
「昨夜から月の障りが始まり、お参りはできないと残念がっていらっしゃいます。今朝の夢見もお悪かったようですので、今日は一日ご謹慎なさいます。かえすがえすも残念なことで、ご不運が重なっておられるように拝見いたします」
お迎えの人たちには食事を出して帰らせる。