冷遇令嬢、最恐軍医に嫁ぎました~大正深愛綴り~
一カ月後の卯月。
少しずつ木々の芽が綻ぶ中、紫乃は婚礼衣装にそっと袖を通した。
「お姉さまには不釣り合いの婚礼衣装ね。私の方が絶対に似合うのに!」
「どうせ、目が悪い嫁なんて体裁が悪いから隠したくて仕方ないのよ。蘭子の時は、もっと豪華に仕立ててあげるわ」
「本当?! 約束ですわよ!」
「えぇ」
様子を見に来た継母と蘭子が部屋を後にした。
篁家から贈られた婚礼衣装は、指先に触れただけで上質さがわかるほど、柔らかくしっとりとした生地だった。
そっと動くたび、衣装から仄かに花の香りが立ちのぼる。それは、誰かが丁寧に焚きしめた香の名残のようで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
紫乃は思わず、胸元でそっと手を重ねた。
(蘭子の言う通り、こんなに素敵な婚礼衣装……私には、もったいないくらいだわ。目が不自由なことは承知済みだと父から聞いてはいるけれど、軍の高官からの口利きなら、断ることができなかったのかもしれない)
紫乃の胸に冷たいものが沈んでいく。紫乃は箪笥から母の形見の櫛を取り出し、懐に忍ばせた。
姿見に映る自分の姿は、輪郭がぼやけていてよく見えない。けれど、胸の奥に小さな灯が少しだけともる。
(この家には、もういる意味がない。ならば、嫁ぐ先で、自分の居場所を見つけないと……)
篁家が手配した馬車の前で、紫乃は姿勢を正した。
十六年間過ごした思い出が、走馬灯のように脳裏を掠めた。
扉が閉まる音がして、馬車がゆっくりと動き出す。その瞬間、紫乃は小さく息を吐いた。
(……さようなら、岩永家)
薄曇りの空は、今日も輪郭が滲んでいる。けれど、ぼやけた光の向こうに、確かに新しい一日が始まっていた。
その光だけは、紫乃にもはっきりと感じられた。