冷遇令嬢、最恐軍医に嫁ぎました~大正深愛綴り~

 その夜、日付が変わる頃に帰宅した勇心は、静寂に包まれている屋敷の中を、足音を立てないように慎重に歩く。稀に、足音に気づいた紫乃が起きてくることがあるからだ。
 以前は気にも留めなかった些細なことも、最近は気にするようになっていた。
 廊下を進んでいくと、書斎の扉の隙間から、仄かな灯が漏れているのが見える。

(誰かがいるのか……? いや、紫乃さんしかいないな)

 部屋で待ってくれていると思うと、無意識に頬が緩みだす。

「ただっ……」

 扉を開けたと同時に、うとうとと眠る妻の姿が目に入り、勇心は思わず口を噤んだ。紫乃は眼鏡をかけたまま、気持ちよさそうに寝息を立てている。

(眼鏡をかけたままだと危ないな)

 勇心は紫乃の真横に歩み寄り、眼鏡のつるに指を添え、紫乃を起こさぬよう、慎重に外した。
 机の上には翻訳途中の資料と、丁寧な文字で書かれた覚え書きが並べられている。

(……これはまた、随分な量だな)

 かすかな笑みが、唇の端に滲んだ。
 勇心は紫乃の頬に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、彼女の唇がわずかに動いた。

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