恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜

5.甘い休日の約束

 カーテンから差し込む明かりで目が覚め、朝になったのだと知る。
 ぐっすり寝られたとは言い難い感じがして、ぐぐっと腕や背を伸ばして体をほぐす。
 それでも昨夜のことが心の奥でずっとモヤを残したままで、私は深い溜め息を吐いた。

「……昨日のこと、やっぱり聞けばよかったのかな」

 いつまでもズルズルと引きずるのは私の悪い癖だ。
 今日はお店の定休日。ゆっくり楽しく過ごそうと思っていたのに、これではいけない。
 パジャマから着替えながら、気持ちを切り替えようと心に決める。

 着替え終わり部屋を出ようとしたところでドアがノックされた。
 このノックの仕方は黎斗さんだ。胸がトクンと鳴り始める。
 ドアを開けると、壁に寄りかかりながら微笑んでいる彼が居た。

「おはよう、陽菜」
「お、おはようございます、黎斗さん」

 どうしたんですか? と訊ねる。
 どこかへ出かける用事があるのかと思ったけれど、黎斗さんの服装はいたって普通のラフな部屋着だ。
 髪もきちんとセットしていないようで、ちょこっと寝癖が残っている。

 黎斗さんも起きたところなのだろうか。と、私が不思議そうな顔でいると、黎斗さんは「その顔は覚えてないみたいだな」と答えた。
 覚えていないとは……? さらに謎が増える。

「前に言ったろ。一緒に新作スイーツ作りをしてほしいって」

 たしかに言っていた。これからは黎斗さんが新作スイーツを試作する時の仲間に入れてもらえるんだと喜んだのを覚えている。
 ということは、訪ねてきた理由はそれということか。

 いや、だとすると今の彼の服装は少しおかしい気がする。
 厨房でスイーツ作りをするには服装がラフすぎる。あまりにも普段着のままだ。
 黎斗さんは仕事とプライベートはきっちり分けたいタイプのようで、試作スイーツを作る時は必ずパティシエの制服を着て厨房で行っている。

 私の頭にハテナマークが飛び交う。
 それを見兼ねた黎斗さんが困ったように微笑んだ。

「今日はお店の定休日だ。時間もたっぷりある」
「そ、そうですね……?」

 わけが分からず相槌を打つ。

「俺と一緒にお菓子作りをしてほしい。というか、するぞ。二人で」

 決定事項だ、と言わんばかりの口調で黎斗さんが言う。
 は、はあ……。と未だに理解の出来ていない私が相槌を打つと、彼は問答無用で私の腕を取りスタスタと歩き始めた。
 けれど厨房へ繋がる階段を通り過ぎてしまい、連れて行かれたのは普段みんなで食事をしているキッチンだった。

 なんで厨房じゃなくてキッチンなんだろう。私は理解が追いつかない。
 イスに座らされた私の前に朝食のトーストや紅茶が置かれる。なにやらとても用意がいい。
 起きたばかりでお腹は空いているのでありがたい。でも彼のしようとすることがやっぱり理解できない。

 もぐもぐとトーストを頬張りながら黎斗さんを見た。
 綺麗に整えられたキッチンで、普段作り用の製菓用具をテキパキと並べている。
 てっきり試作品を作るのだと思っていたけれど、もしかして普通にお菓子作りをするだけ?

 私がそう思案していると、振り返った黎斗さんと目が合った。
 ごくん、とトーストを飲み込む。

「それを食べたら始めるぞ。いいな」
「は、はいっ」

 もはや強制である。私に拒否権はない。
 ニヤリと笑みを浮かべながら私を見つめる黎斗さん。この笑顔のときの彼はいつも強引だ。
 嫌なわけではない。というかむしろ、少しだけ強引な黎斗さんは好きだったりする……。

 なにを考えてるんだ、私は! ぷるぷると顔を振ってトーストを食べ進める。
 私が朝食を食べ終わる頃には、製菓用具や小麦粉やなんかが完璧に並べられていた。
 さすがすぎる。強引に事を運びつつも、きちんと朝食を食べさせてくれたり、こちらが終わるのを待っていてくれたりする。

 強引だけれど、ちゃんと優しい。こちらが本当に嫌がることは絶対にしない。
 黎斗さんのそういうところが大好きだ。

 お皿を片付けて私もエプロンを着ける。黎斗さんも普段使い用のエプロン姿だ。
 何をしようとしているかは理解した。理解したけども……。

「新作の試作品作りじゃなくて、普通にお菓子を作るんですよね?」
「そうだ」
「……私って必要なんですか?」
「…………、はぁ……」

 黎斗さんが大きな溜め息を吐いた。どうやら変なこと聞いてしまったようだ。
 しばしの沈黙が流れて、見つめ合っていた目が逸らされる。
 そして黎斗さんは逸らした視線のまま、少しだけ低めの声で答えた。

「試作品作りじゃないと陽菜と一緒にお菓子作りできないなんて嫌だろ……」

 黎斗さんの耳がほんのり赤い。私の顔もおそらく紅潮している。
 ドクンドクンと心臓がうるさく鳴って、体温も上がっている気がした。
 それはまるで「お前と一緒に普通にお菓子作りをしたい」と言われているようなもので、彼の言った言葉が頭の中でずっと木霊している。

「じゃあ始めるぞ」
「……は、はいっ」

 今日はこれを作る、と提示された本のページを確かめる。
 おそらく私のような初心者でも作れるようなスポンジケーキが載っていた。
 今までフレンチトーストのような工程数の少ないものなら教わったが、初心者にとっては手が出しづらい工程数の多いものは初めてだ。

 黎斗さんが私と一緒に作りたいと思ったもの。
 そう考えると、難しくても頑張ろう! という気持ちになれた。

「……うううっ」

 やる気満々だったものの、やはり初心者には手間取ることばかりだった。
 材料を計って準備するのにも時間がかかってしまい、半分は黎斗さんが代わりにやってくれた。
 とはいえ隣で指示したりされたり、お互い本を見比べて作業するのは楽しくて、黎斗さんもずっと笑みを浮かべたままだった。

 材料を揃えたら次は生地作り。本に書かれた通りにボウルへ投入して混ぜていく。
 これ本当に混ざるんだろうか、と疑問に思っていても混ぜていくときちんと書かれてある通りになるのが楽しい。
 けれど、聞いたことはあっても具体的にどうするのか分からない用語がところどころあり、そのたびに隣で見ている黎斗さんに質問をする。

 それはこういうことで、と丁寧に分かりやすく教えてくれるのがすごくありがたい。
 なるほど~、と相槌を打ちながら生地を混ぜる作業を続ける。
 こういうのすごく楽しいな、と笑みがこぼれる。

「陽菜、ちょっといいか」
「え? ……わぁ!?」

 隣で作業を見ていた黎斗さんが私の背後に移動したかと思うと、そのまま腕が両脇から伸びてきて私の両手を掴んだ。
 状況が飲み込めずに固まってしまう。後ろから抱きしめられる体勢で、私の両手を黎斗さんの両手が包んでいる。
 ど、どういう状況……!?

 手のひらに汗がじんわりと滲んでくる。うまく喋れなくなる私に対して、黎斗さんは普通の様子だ。
 掴まれた手が誘導するように動かされながら、耳元では彼の低音が囁かれる。
 こういうふうに動かして、と説明してくれているのは聞こえたが、心臓が激しく叫んでいて冷静に聞くことができない。

 黎斗さんの低音が耳へ響くたびに、体が震えてしまい手にうまく力が入らなくなる。
 どうしよう。このままだと心臓も頭も破裂してしまう……!
 そう思った矢先。

「陽菜は右利きなんだったな」

 手の動きを止めて、黎斗さんが気付いたように呟く。
 そうだ。言われてみれば黎斗さんは左利きだ。今日だって黎斗さんが左側に立って、私が右側に立って作業していた。
 利き腕が違うからお互いの腕が当たらないように立っていたのだが、いつの間にか染み付いてしまって無意識の立ち位置になっていた。

「自分からやっておいてなんだが、混ぜにくい……」
「や、やっぱりそうなんですね」

 私の手を掴んだままの彼の手が、くるくると円を描くが綺麗な円を描けていない。
 たしかに動かし辛そうだ。

「左手でやるとどうなるんですか?」
「ん? ああ、そうだな」

 ヘラを持つ手が変わる。もちろん私の手を介して。
 さきほどと同じようにくるくると円が描かれる。明らかに動きが違う。すごく自然だ。
 そして私の利き手ではないほうの手が器用に動くのがなんだかくすぐったくて、我慢していたけれど笑いがこぼれてしまう。

「な、なんか、変な感じがする……ふふっ……」
「…………っ」

 生地をかき混ぜていた黎斗さんの手が止まる。
 良い感じの混ざり具合になったのかな、と思っていると、私の手を握る彼の手に力が加わった。
 そして後ろから少しだけ体重がかかったのを感じてやっと理解した。

 この体勢は、黎斗さんが私にくっついている……?
 え? なんで? どういうこと?

 私の思考がストップする。まるで後ろから抱きしめられているような体勢に、体は熱くなり胸の鼓動も激しくなるばかり。
 あまりの展開に張り裂けそうだ。でも黎斗さんの力で全身まるごと包みこまれているから逃げられないし離れられない。

「れ、黎斗さん……っ?」

 彼の名前を呼ぶ。ぴくり、と動いた気がした。私の両手を握っていた彼の手が解かれる。
 ようやく開放されるのかと思いきや、その腕が私の腰を包みこんだ。

「ひぇっ……!?」

 少女漫画やドラマなんかでよく見る、いわゆるバックハグの体勢。
 腰に回された腕の力がすごく強い。
 黎斗さんの頭がよりいっそう近くなって、彼の髪が私の頬をくすぐる。

 もう頭の中がぐちゃぐちゃでどうしたらいいか分からない……!
 そう思っていると、耳元で彼の低い声がした。

「……手放したくないな」
「え……?」

 ぼそぼそと呟いていて聞き取れない。何て言ったのだろう。
 聞き返そうとしたけれど、そんな暇はなく彼の腕が解かれた。
 密着していた背中の感触もなくなる。

「さ、これで綺麗に混ぜられただろ」

 黎斗さんのいつもの穏やかな声が聞こえる。
 ボウルの中の生地は本に書かれてある通りの混ざり具合になっていた。
 熱くなっていた体温がゆっくりと落ち着いていき、胸の鼓動もトクントクンと静かになっていく。

 心臓が張り裂けそうなほど恥ずかしかったけれど、黎斗さんの体が離れてしまうと名残惜しくてしかたなかった。
 今日は朝から甘い出来事の連続でずっとトキメキっぱなしだ。

 昨夜のこと、すごく気になるのに……、やっぱり私はこの幸せで温かな生活を壊したくない。
 優しくて、でも時々いじわるで、同じことで笑い合いながら過ごす黎斗さんとの日々が大好きだ。
 この生活がずっと続けばいいのに。ずっとずっと、このままでいたい。

 ケーキ型の中へ生地を流し込んで、空気を抜くために数センチの高さから何度か落とす。
 黎斗さんがいつもやっていた見様見真似だけど、きちんと空気は抜けたと思う。
 オーブンの前で待っていた黎斗さんのもとへ型を持っていった。

 こちらを振り向いて一言「ん」と返事した黎斗さんが受け取る。
 いつの間にか温められていたオーブンの中へ型が投入された。
 あとは待っている間にクリームや飾りつけの準備だ。

 ピッピッ、とオーブンのスイッチ音が鳴る。黎斗さんが手際よく慣れた手つきでセットしている。
 待っている間、手持ち無沙汰な私がふとテーブルへ目をやった時だった。
 置かれていた黎斗さんのスマホが通知を知らせる画面を映した。

 それはほんの一瞬だけで、画面はまたすぐに暗くなる。
 見てはいけない、とすぐに目を逸らしたから何が表示されていたかは分からない。

「陽菜?」
「……あ、はいっ」

 名前を呼ばれて振り向く。そうだ、まだケーキ作りは終わってない。
 集中しなきゃ。次はクリーム作りだ。飾りつけのフルーツもカットしないと。
 私は袖をまくり直して気合を入れた。


 それからしばらくの後、ごくごく簡単な普通のショートケーキが出来上がった。
 黎斗さんが手伝ってくれたのもあって、なんとか美味しそうな見た目になったそれを切り分けていく。
 私が担当した部分はちょっと見た目がヘンテコだけど、味はちゃんと美味しいはず。

 緊張しながらフォークを刺して、一口分だけすくって口へ運ぶため持ち上げる。
 すると私の口へ放り込まれる前に、横で見ていた黎斗さんが身を乗り出してきてパクリと食べてしまった。

「……えっ?」
「うん、うまい」
「ええええっ……!?」

 黎斗さんが私の持っていたフォークから食べた。美味しそうにモグモグと食べている。
 図らずも「あーん」したようになってしまい、驚きの声を上げてしまった。
 宙に残された私の手がプルプルと震える。

「陽菜が作ったから美味しいんだな」

 うんうん、と頷きながら黎斗さんが追撃の一言を放つ。
 震えながら顔を紅潮させている私を見て、楽しいんだろうなと分かるほど砕けた顔で笑っている。

「ははっ、悪い。拗ねないでくれ」
「……拗ねてないですっ」

 今日の黎斗さんはいつもに増してイジワルだ……。
 頬を膨らませてフォークをお皿に置いていると、笑っていた黎斗さんが静かになり、真面目な顔つきになった。
 陽菜、と凛とした声で私の名前を呼ぶ。

「また一緒に作ろうな」

 穏やかな笑みを浮かべながら黎斗さんが言う。
 じんわりと胸の中が温かくなるのを感じながら「……はい!」と返事をした。

 ああ、本当に……。この時間が永遠に続けばいいのに。


   ◇


 今日は本当に楽しい一日だった。
 黎斗は自室のベッドの上で寝転びながら、染み渡るような心地良さを思い返していた。
 陽菜の無邪気に笑う顔、怒って膨れる顔。ころころと変わる表情が、仕草が、どれも愛おしくてたまらない。

 枕元に放り投げていたスマホを取り、未読にしていた通知をタップする。
 表示された画面を見て、黎斗の表情がゆっくりと曇っていく。

「……もう少しだけ、時間をくれ」
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