恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜
6.知らないままでいたいのに
ウグイスが鳴くようになったほんのり暖かな朝。カーテンから差し込む日差しも心地良くて、もっと寝ていたい気分になる。
布団の中で何度も寝返りをうちながら葛藤し、やっとの思いで起き上がった。
寝起きの頭を覚ますために両腕を上げてグンと伸びをする。
「んー……っ」
まだ覚めきらない寝ぼけ眼で思い出すのは昨日のこと。黎斗さんと一緒にお菓子作りをしたことだ。
試作品作りとは違って、のんびりと楽しく作った空気とか、一緒にあれこれ言い合いながら作ったりとか。
いつまでも覚えておきたい幸せな一日だったなぁ、とじんわり胸が温かくなる。
そこでふと、黎斗さんから抱きしめられたときのことを思い出した。
大きな腕に包みこまれて、黎斗さんの体が密着したときの感触と体温。
鮮明に思い出せるほど脳裏に焼き付いていて、 全身が一気に熱くなって胸の奥が締め付けられる。
普段なら手際よくやれるはずの髪を結い上げる作業も上手くいかず、あの出来事は私の心を思った以上に揺さぶるものだった。
顔に出てしまわないように、キッチンへ着くまでの間に顔をこねくり回してしっかり整えた。
「おはよう。陽菜」
「お、おはよう、ございます」
キッチンではすでに黎斗さんが朝食を摂っていた。しっかり顔を整えたのに、声が上擦ってしまう。
平静を装って席へ着く。黎斗さんは特に気づいた様子はなく食べ進めている。
細かなことですぐ気づく彼だからバレたかと思ったけど、ほっと胸を撫で下ろす。
ほんのり焼き色のついたトーストへマーガリンを塗って、私も朝ご飯を食べ始めた。
向かいの席で食べている黎斗さんの手が視界に入る。
大きくて骨ばった男の人らしい手。あの手に包みこまれたんだなぁ、大きかったなぁ……と思い返せば、たちまちあの時の光景を思い出してしまって体が火照り始めた。
「…………っ!」
慌てて振り払い、目の前の朝ご飯に集中をする。
思い返すたびにこうなっていては仕事が手につくわけない。
気持ちを切り替えなくては! 自分を叱咤する。
「今日はいつもより開店時間が遅いから、そんなに慌てなくていいぞ」
「はーい」
先に食べ終えた黎斗さんが片付けをしながら言う。
食べるのが遅い私を気遣って言ってくれたのだと思うと胸が温かくなる。
ほどなくして私も食べ終えて、食器を片付けたあと厨房へ向かった。
小さい、なんて言うとおばあちゃんに怒られそうだけど。
うちのお店はもともとおばあちゃんの自宅ということもあってそんなに大きくなく、お客さんも近所の人がほとんどで良い意味で忙しなくないのが魅力だと思う。
穏やかでのんびりとしたところが心地良くて私も大好きだ。
ここが旧市街ということで住民は昔からここに住んでいる人がほとんど。お店のお客さんもおじいちゃんやおばあちゃんが多い。
私や黎斗さんのような20代ぐらいの若者は少ないらしくて、二人ともお客さんたちから孫のように可愛がられている。
自分が食べてるケーキなどを味見といってたまに食べさせてくれる人もいるくらいだ。
開店前からおばあちゃんのお友達のマダムたちがお店の前にあるベンチへ座っていて、おばあちゃんとお喋りをしながらお店が開くのを待っている光景も日常茶飯事。
私と顔が合うと手を振ってくれて、手招きされる時はたいていおやつのアメをくれる。
「暖かくなってきたから、あそこでお喋りする時間も増えるだろうな」
「そうですね」
黎斗さんが外を眺めたら呟いた。私もにこやかに頷く。
冬の間は寒くて店内のベンチでお喋りしていたけど、暖かくなって外の風を感じながらするお喋りはとても気持ち良いだろうなぁ。
いつまでも続いてほしいと願う日常の光景だ。
厨房へ戻って黎斗さんと一緒に仕込みを始める。
といっても私に出来るのは材料を準備するといった軽めのことや、黎斗さんから指示された物を運んでくるといったことぐらい。
黎斗さんは私がやるといっても重たい物を運ばせることは絶対にさせないし、理解してないと出来ないことは絶対にさせない。
もっと黎斗さんの役に立ちたい。そう思っても自分に出来ることは限られていてもどかしい。
悶々とそんなことを考えながら作業していたら、手が滑って持っていたボウルを床に落としてしまった。
厨房内にけたたましい音が鳴り響き、幾つも重なっていたボウルがあちこちへ転がっていく。
「あわわわわっ……!?」
慌ててボウルたちを追いかける。
クワンクワンと回転したあとその場にスンと座り込むボウル。壁にぶつかって寄りかかるボウル。
綺麗に転がり続け逃げていったボウルは、黎斗さんの脚に当たって動きを止めた。
「盛大にやらかしたな、陽菜」
「あは、は……」
ボウルを拾い上げた黎斗さんが苦笑いをしている。
手伝っているはずなのにドジばかりな自分が恥ずかしい。じわじわと体が熱くなる。
真っ赤になっているであろう顔を隠すように、散らばったボウルたちを追いかけた。
「いつだったか、小麦粉を床にぶちまけた時もあったなぁ」
「……わ、忘れてくださいっ!」
追い打ちをかける黎斗さんに思わず声が大きくなってしまった。
砕けた顔でクツクツと楽しそうに笑う彼。すまんすまん、と隠しきれない笑いを漏らしながら散らばるボウルたちを拾う手伝いを始めてくれる。
私もそれを見て、膨らせていた頬を戻してボウル拾いを再開した。
見渡すと本当にあちこちにボウルが転がっている。
そんなとこにまで転がっていたのか、という場所にあるボウルもあった。
拾ったボウルを数えていき残り1つはどこだろう、と辺りを見回す。
「「あった」」
2つの声が重なる。そしてゴツンッとぶつかる音も響いた。
私と黎斗さんが同時に「いたっ!」「いてっ!」と悲鳴をあげる。
同じボウルを拾おうとしてお互いの頭をぶつけたみたいだ。
お互い床に座り込んでぶつけた場所をさすりながら痛がる。
痛みが引くまでの間、少しだけ沈黙が流れた。
「すまん、痛かっただろう……」
「は、はい……」
私ってどうしてこんなにドジなんだろう……。違う意味でも涙が出てしまいそうだ。
ボウルを拾い上げた黎斗さんが手渡してくれる。受け取りながら消え入りそうな声で謝る私を見て、なにか思ったのか黎斗さんは黙って私を見つめてきた。
な、なんだろう……と思わず身構える。
「陽菜はじゅうぶん頑張ってるよ」
「え……」
芯のある声で黎斗さんが言う。
その目は真っ直ぐ私を見つめていて、真剣な眼差しだ。
このお店で働くことになって、何も分からない状態で仕事を始めた私を黎斗さんやおばあちゃんが怒ってきたことは一度もない。
小麦粉を床一面にぶちまけたときだって二人とも笑いながら一緒に掃除をしてくれた。
砂糖と塩を間違えて渡してしまったときだってそうだ。決して怒ることなく二人は笑ってくれた。
どんなに些細なことでも怒られて育った私にはそれが嬉しくてたまらなかった。
最初こそビクビクしながら働いていたけれど、二人の温かい優しさにだんだんと心身ともにほぐれていったのを覚えている。
私が初めて心の底から笑うことが出来たのだって二人のおかげだ。
「分からないことは知ろうとするし、慣れないことはやって慣れようとする。陽菜のそういうところ、俺は好きだからな」
「…………っ」
黎斗さんの言葉に全身が熱くなる。ボウルを握る手にもじわじわと汗が滲む。
私のことを見ていてくれたという事実がすごく嬉しくて、でも恥ずかしくて見つめ合うことができず彼から視線を外してしまった。
黎斗さんの優しさに私の心は揺れっぱなしだ。無色だった心が彼の色で染まっていくような気がする。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで伝えられた感謝の言葉。
もう私の心は彼から離れることなんてできない。知ってしまった彼の優しさや温かさを忘れることなんて無理だ。
この日々は、私にとって大切な宝物になっている。
ボウルも無事に集め終えたのでこれから洗わなくてはと私が立ち上がると、黎斗さんも続いて立ち上がった。
ぶつけた場所はまだほんのり痛みがあるけど、時間が経てば大丈夫だろう。
そう思いながらシンクへ向かおうとしたときだった。
「ぶつけたとこ、大丈夫か?」
「へっ……!?」
黎斗さんの腕が伸びてきて、その大きな手のひらが私の頭を包み込んだ。
ぶつけた場所を優しい手つきで撫でている。
触れられた瞬間わずかに体をビクつかせてしまった。どうしよう。さっきからずっとドキドキしっぱなしだ。
「だ、だ、大丈夫です。ありがと、ございます」
「そうか。ならいいんだが」
震える声でなんとか喋る。
まさか頭をなでなでしてもらえるなんて思ってなかったから、口から心臓が飛び出てしまうかと思った。飛び出なくて良かった。
――黎斗さんの手が離れたあと。またあのときみたいな目眩を覚える。
「…………っ!?」
咄嗟に台ヘ手をついて倒れそうになるのを隠す。
立ち眩みのような一瞬だけの出来事だったけれど、……また何かが見えた。
その一瞬で見えた、いくつかの光景。
夜の街。見知らぬ男性。そこに黎斗さんも居る。
その黎斗さんの無表情さに体が冷える感覚を覚えた。
「陽菜?」
「…………っ」
黎斗さんの声で意識がクリアになる。目眩の感覚も治まった。
「どうした?」と心配する彼に「なんでもないです」と咄嗟に微笑みながら返事をする。
ほんの一瞬だったはずだ。彼にはバレないはず。
……この間から黎斗さんの姿ばかりが見える。でもいったい何なのかは分からない。
分からないけれど、本人へ聞くことなんて出来ない。
この穏やかで優しい日常を、ずっと守っていたいから。
夜が明けて次の日になり、天気予報が珍しく外れて雨が降っていた。
雨音とテレビの音だけが響くキッチンで、トーストを頬張りながら明日以降の天気予報をチェックする黎斗さん。
その姿を眺めながら私もトーストを頬張っている。
「晴れだって言ってたのに雨ですねぇ」
「そうだなぁ」
外れることもあるもんだ。黎斗さんが呟く。
天気予報が終わるのと同時に彼も朝食を食べ終えて席を立つ。
テレビからはニュースを伝える内容が流れ始めた。
いつも地元イベントやお知らせばかりを伝えている平和なローカル番組。
それが普段と毛色の違う重々しいニュースを伝え始めて、二人とも視線が釘付けになった。
「〇〇の容疑で逮捕された〇〇氏ですが――」
どうやら誰かが逮捕されたニュースのようだった。
出てきた名前は地元の人ならみんな知っているほどの著名人。悪事とは無縁の人格者として住民たちから愛されているような人。
そんな人が逮捕だなんて、新参者の私ですら驚いてしまう。
――ガチャンッ。
シンクのほうからお皿の落ちる音がした。少し大きな音で、思わず視線がそちらへ向く。
黎斗さんがテレビを凝視していた。お皿は手から滑って落ちたようだった。
「黎斗さん?」
「……あ、いや。なんでもない」
心配で声をかけると、黎斗さんはこちらを向いて穏やかに微笑んだ。
強張った表情をしていたように見えたのは気のせいだったのかな。
やっぱり地元の人は驚くくらいの内容なんだなぁ。お皿を落とすぐらいなんてよほどのことみたいだ。
開店後のお店でもお客さんたちの会話はそれで持ち切りだった。
あり得ない、なにかの間違いなんじゃ、なんて声も聞こえるくらい。
地元に衝撃が走る、とはこういうことを言うのだろうなぁ。
「すごいですね、今朝のニュース。みんな話してますよ」
「……ああ、そうだな」
注文を伝えに厨房へ戻ってきた私は、普段と違う光景に驚きを隠せずにいた。
黎斗さんもいつもと違う雰囲気を感じ取っているようで、話しかけても一拍置いて返事が遅れている。
出来上がったお皿を受け取ったときも、乗せるはずのフルーツが1つ足りないといったミスをしてしまうほど。
「黎斗さん、大丈夫ですか?」
「…………」
「黎斗さん……?」
「……っ! すまん、考え事をしてた」
幾度目かの声かけで黎斗さんがハッとする。困ったように眉を下げて笑っていた。
疲れているときなどミスをすることはたまにあるけれど、今日の黎斗さんはやっぱり少しだけ調子が悪そうだ。
今朝のニュースがそれだけショックだったの? いや、なんとなくそれだけではないような気がする。
……でもそれは、私の想像に過ぎない。
たった一言、聞けばいいのに。その一言を言葉にする勇気がない。
それじゃいつまで経っても正解には辿り着けないのに。
悶々と考えては聞けない、聞きたくないと自分に言い聞かせている。
でも……やっぱりこのままでいたい。
知らないままで、いたい。
ずっと、このままで……。
◇
虫の鳴く声だけが静かに響く深夜。草木も眠る時間にも関わらず黎斗はまだ起きていた。
スマホをじっと見つめて確かめているのは、先方から送られてきた資料。
情報が少なすぎる状態で受けた長期依頼だったが、数週間もすれば“対象の人物”の特徴も次第に少しずつ明らかになってきた。
「……妙だな」
黎斗がわずかに眉をひそめた。
布団の中で何度も寝返りをうちながら葛藤し、やっとの思いで起き上がった。
寝起きの頭を覚ますために両腕を上げてグンと伸びをする。
「んー……っ」
まだ覚めきらない寝ぼけ眼で思い出すのは昨日のこと。黎斗さんと一緒にお菓子作りをしたことだ。
試作品作りとは違って、のんびりと楽しく作った空気とか、一緒にあれこれ言い合いながら作ったりとか。
いつまでも覚えておきたい幸せな一日だったなぁ、とじんわり胸が温かくなる。
そこでふと、黎斗さんから抱きしめられたときのことを思い出した。
大きな腕に包みこまれて、黎斗さんの体が密着したときの感触と体温。
鮮明に思い出せるほど脳裏に焼き付いていて、 全身が一気に熱くなって胸の奥が締め付けられる。
普段なら手際よくやれるはずの髪を結い上げる作業も上手くいかず、あの出来事は私の心を思った以上に揺さぶるものだった。
顔に出てしまわないように、キッチンへ着くまでの間に顔をこねくり回してしっかり整えた。
「おはよう。陽菜」
「お、おはよう、ございます」
キッチンではすでに黎斗さんが朝食を摂っていた。しっかり顔を整えたのに、声が上擦ってしまう。
平静を装って席へ着く。黎斗さんは特に気づいた様子はなく食べ進めている。
細かなことですぐ気づく彼だからバレたかと思ったけど、ほっと胸を撫で下ろす。
ほんのり焼き色のついたトーストへマーガリンを塗って、私も朝ご飯を食べ始めた。
向かいの席で食べている黎斗さんの手が視界に入る。
大きくて骨ばった男の人らしい手。あの手に包みこまれたんだなぁ、大きかったなぁ……と思い返せば、たちまちあの時の光景を思い出してしまって体が火照り始めた。
「…………っ!」
慌てて振り払い、目の前の朝ご飯に集中をする。
思い返すたびにこうなっていては仕事が手につくわけない。
気持ちを切り替えなくては! 自分を叱咤する。
「今日はいつもより開店時間が遅いから、そんなに慌てなくていいぞ」
「はーい」
先に食べ終えた黎斗さんが片付けをしながら言う。
食べるのが遅い私を気遣って言ってくれたのだと思うと胸が温かくなる。
ほどなくして私も食べ終えて、食器を片付けたあと厨房へ向かった。
小さい、なんて言うとおばあちゃんに怒られそうだけど。
うちのお店はもともとおばあちゃんの自宅ということもあってそんなに大きくなく、お客さんも近所の人がほとんどで良い意味で忙しなくないのが魅力だと思う。
穏やかでのんびりとしたところが心地良くて私も大好きだ。
ここが旧市街ということで住民は昔からここに住んでいる人がほとんど。お店のお客さんもおじいちゃんやおばあちゃんが多い。
私や黎斗さんのような20代ぐらいの若者は少ないらしくて、二人ともお客さんたちから孫のように可愛がられている。
自分が食べてるケーキなどを味見といってたまに食べさせてくれる人もいるくらいだ。
開店前からおばあちゃんのお友達のマダムたちがお店の前にあるベンチへ座っていて、おばあちゃんとお喋りをしながらお店が開くのを待っている光景も日常茶飯事。
私と顔が合うと手を振ってくれて、手招きされる時はたいていおやつのアメをくれる。
「暖かくなってきたから、あそこでお喋りする時間も増えるだろうな」
「そうですね」
黎斗さんが外を眺めたら呟いた。私もにこやかに頷く。
冬の間は寒くて店内のベンチでお喋りしていたけど、暖かくなって外の風を感じながらするお喋りはとても気持ち良いだろうなぁ。
いつまでも続いてほしいと願う日常の光景だ。
厨房へ戻って黎斗さんと一緒に仕込みを始める。
といっても私に出来るのは材料を準備するといった軽めのことや、黎斗さんから指示された物を運んでくるといったことぐらい。
黎斗さんは私がやるといっても重たい物を運ばせることは絶対にさせないし、理解してないと出来ないことは絶対にさせない。
もっと黎斗さんの役に立ちたい。そう思っても自分に出来ることは限られていてもどかしい。
悶々とそんなことを考えながら作業していたら、手が滑って持っていたボウルを床に落としてしまった。
厨房内にけたたましい音が鳴り響き、幾つも重なっていたボウルがあちこちへ転がっていく。
「あわわわわっ……!?」
慌ててボウルたちを追いかける。
クワンクワンと回転したあとその場にスンと座り込むボウル。壁にぶつかって寄りかかるボウル。
綺麗に転がり続け逃げていったボウルは、黎斗さんの脚に当たって動きを止めた。
「盛大にやらかしたな、陽菜」
「あは、は……」
ボウルを拾い上げた黎斗さんが苦笑いをしている。
手伝っているはずなのにドジばかりな自分が恥ずかしい。じわじわと体が熱くなる。
真っ赤になっているであろう顔を隠すように、散らばったボウルたちを追いかけた。
「いつだったか、小麦粉を床にぶちまけた時もあったなぁ」
「……わ、忘れてくださいっ!」
追い打ちをかける黎斗さんに思わず声が大きくなってしまった。
砕けた顔でクツクツと楽しそうに笑う彼。すまんすまん、と隠しきれない笑いを漏らしながら散らばるボウルたちを拾う手伝いを始めてくれる。
私もそれを見て、膨らせていた頬を戻してボウル拾いを再開した。
見渡すと本当にあちこちにボウルが転がっている。
そんなとこにまで転がっていたのか、という場所にあるボウルもあった。
拾ったボウルを数えていき残り1つはどこだろう、と辺りを見回す。
「「あった」」
2つの声が重なる。そしてゴツンッとぶつかる音も響いた。
私と黎斗さんが同時に「いたっ!」「いてっ!」と悲鳴をあげる。
同じボウルを拾おうとしてお互いの頭をぶつけたみたいだ。
お互い床に座り込んでぶつけた場所をさすりながら痛がる。
痛みが引くまでの間、少しだけ沈黙が流れた。
「すまん、痛かっただろう……」
「は、はい……」
私ってどうしてこんなにドジなんだろう……。違う意味でも涙が出てしまいそうだ。
ボウルを拾い上げた黎斗さんが手渡してくれる。受け取りながら消え入りそうな声で謝る私を見て、なにか思ったのか黎斗さんは黙って私を見つめてきた。
な、なんだろう……と思わず身構える。
「陽菜はじゅうぶん頑張ってるよ」
「え……」
芯のある声で黎斗さんが言う。
その目は真っ直ぐ私を見つめていて、真剣な眼差しだ。
このお店で働くことになって、何も分からない状態で仕事を始めた私を黎斗さんやおばあちゃんが怒ってきたことは一度もない。
小麦粉を床一面にぶちまけたときだって二人とも笑いながら一緒に掃除をしてくれた。
砂糖と塩を間違えて渡してしまったときだってそうだ。決して怒ることなく二人は笑ってくれた。
どんなに些細なことでも怒られて育った私にはそれが嬉しくてたまらなかった。
最初こそビクビクしながら働いていたけれど、二人の温かい優しさにだんだんと心身ともにほぐれていったのを覚えている。
私が初めて心の底から笑うことが出来たのだって二人のおかげだ。
「分からないことは知ろうとするし、慣れないことはやって慣れようとする。陽菜のそういうところ、俺は好きだからな」
「…………っ」
黎斗さんの言葉に全身が熱くなる。ボウルを握る手にもじわじわと汗が滲む。
私のことを見ていてくれたという事実がすごく嬉しくて、でも恥ずかしくて見つめ合うことができず彼から視線を外してしまった。
黎斗さんの優しさに私の心は揺れっぱなしだ。無色だった心が彼の色で染まっていくような気がする。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで伝えられた感謝の言葉。
もう私の心は彼から離れることなんてできない。知ってしまった彼の優しさや温かさを忘れることなんて無理だ。
この日々は、私にとって大切な宝物になっている。
ボウルも無事に集め終えたのでこれから洗わなくてはと私が立ち上がると、黎斗さんも続いて立ち上がった。
ぶつけた場所はまだほんのり痛みがあるけど、時間が経てば大丈夫だろう。
そう思いながらシンクへ向かおうとしたときだった。
「ぶつけたとこ、大丈夫か?」
「へっ……!?」
黎斗さんの腕が伸びてきて、その大きな手のひらが私の頭を包み込んだ。
ぶつけた場所を優しい手つきで撫でている。
触れられた瞬間わずかに体をビクつかせてしまった。どうしよう。さっきからずっとドキドキしっぱなしだ。
「だ、だ、大丈夫です。ありがと、ございます」
「そうか。ならいいんだが」
震える声でなんとか喋る。
まさか頭をなでなでしてもらえるなんて思ってなかったから、口から心臓が飛び出てしまうかと思った。飛び出なくて良かった。
――黎斗さんの手が離れたあと。またあのときみたいな目眩を覚える。
「…………っ!?」
咄嗟に台ヘ手をついて倒れそうになるのを隠す。
立ち眩みのような一瞬だけの出来事だったけれど、……また何かが見えた。
その一瞬で見えた、いくつかの光景。
夜の街。見知らぬ男性。そこに黎斗さんも居る。
その黎斗さんの無表情さに体が冷える感覚を覚えた。
「陽菜?」
「…………っ」
黎斗さんの声で意識がクリアになる。目眩の感覚も治まった。
「どうした?」と心配する彼に「なんでもないです」と咄嗟に微笑みながら返事をする。
ほんの一瞬だったはずだ。彼にはバレないはず。
……この間から黎斗さんの姿ばかりが見える。でもいったい何なのかは分からない。
分からないけれど、本人へ聞くことなんて出来ない。
この穏やかで優しい日常を、ずっと守っていたいから。
夜が明けて次の日になり、天気予報が珍しく外れて雨が降っていた。
雨音とテレビの音だけが響くキッチンで、トーストを頬張りながら明日以降の天気予報をチェックする黎斗さん。
その姿を眺めながら私もトーストを頬張っている。
「晴れだって言ってたのに雨ですねぇ」
「そうだなぁ」
外れることもあるもんだ。黎斗さんが呟く。
天気予報が終わるのと同時に彼も朝食を食べ終えて席を立つ。
テレビからはニュースを伝える内容が流れ始めた。
いつも地元イベントやお知らせばかりを伝えている平和なローカル番組。
それが普段と毛色の違う重々しいニュースを伝え始めて、二人とも視線が釘付けになった。
「〇〇の容疑で逮捕された〇〇氏ですが――」
どうやら誰かが逮捕されたニュースのようだった。
出てきた名前は地元の人ならみんな知っているほどの著名人。悪事とは無縁の人格者として住民たちから愛されているような人。
そんな人が逮捕だなんて、新参者の私ですら驚いてしまう。
――ガチャンッ。
シンクのほうからお皿の落ちる音がした。少し大きな音で、思わず視線がそちらへ向く。
黎斗さんがテレビを凝視していた。お皿は手から滑って落ちたようだった。
「黎斗さん?」
「……あ、いや。なんでもない」
心配で声をかけると、黎斗さんはこちらを向いて穏やかに微笑んだ。
強張った表情をしていたように見えたのは気のせいだったのかな。
やっぱり地元の人は驚くくらいの内容なんだなぁ。お皿を落とすぐらいなんてよほどのことみたいだ。
開店後のお店でもお客さんたちの会話はそれで持ち切りだった。
あり得ない、なにかの間違いなんじゃ、なんて声も聞こえるくらい。
地元に衝撃が走る、とはこういうことを言うのだろうなぁ。
「すごいですね、今朝のニュース。みんな話してますよ」
「……ああ、そうだな」
注文を伝えに厨房へ戻ってきた私は、普段と違う光景に驚きを隠せずにいた。
黎斗さんもいつもと違う雰囲気を感じ取っているようで、話しかけても一拍置いて返事が遅れている。
出来上がったお皿を受け取ったときも、乗せるはずのフルーツが1つ足りないといったミスをしてしまうほど。
「黎斗さん、大丈夫ですか?」
「…………」
「黎斗さん……?」
「……っ! すまん、考え事をしてた」
幾度目かの声かけで黎斗さんがハッとする。困ったように眉を下げて笑っていた。
疲れているときなどミスをすることはたまにあるけれど、今日の黎斗さんはやっぱり少しだけ調子が悪そうだ。
今朝のニュースがそれだけショックだったの? いや、なんとなくそれだけではないような気がする。
……でもそれは、私の想像に過ぎない。
たった一言、聞けばいいのに。その一言を言葉にする勇気がない。
それじゃいつまで経っても正解には辿り着けないのに。
悶々と考えては聞けない、聞きたくないと自分に言い聞かせている。
でも……やっぱりこのままでいたい。
知らないままで、いたい。
ずっと、このままで……。
◇
虫の鳴く声だけが静かに響く深夜。草木も眠る時間にも関わらず黎斗はまだ起きていた。
スマホをじっと見つめて確かめているのは、先方から送られてきた資料。
情報が少なすぎる状態で受けた長期依頼だったが、数週間もすれば“対象の人物”の特徴も次第に少しずつ明らかになってきた。
「……妙だな」
黎斗がわずかに眉をひそめた。