清く正しく美しく
疑念
――琴葉ちゃんが嫌だと思うなら、琴葉ちゃんが王子様を押し倒しちゃえ
豆原さんの言葉が、ずっと頭の中に残っている。
琴葉は、自室で腕を組んで本棚の前をウロウロ歩き、考えていた。
押し倒す、押し倒す、押し倒す。
――押し倒すって、どうやるの?
愛読書である谷崎潤一郎の『痴人の愛』を引っ張り出して読んでみたものの、琴葉の知りたい答えはなかった。
世の中の恋人たちは、どういう雰囲気で始まるのだろう。
何となく?
二人きりになれば自然とそんな雰囲気に?
どうして?
どうやって?
考えても正解なんて全く分からなくて、琴葉は途方に暮れた。
そもそも口づけすらしたことのない琴葉が、いきなり押し倒すのはどうなのだろう。引かれない?もし、月島くんに引かれるようなことがあったら――と考えてしまい、琴葉は青ざめた。
月島くんに引かれるのは嫌だ!でも、このまま全く触れられないのも寂しい!
なんてワガママなんだろう。でも、どちらも嫌なのだと、どうしても思ってしまう。
豆原さんが年頃の男の人は好きな子との邪なことを考えてるって言ってたし、ちょっとくらい、私から触れてもいいのかな。
そんなことを考えながら本を胸に抱え、琴葉は眠りについた。
――のに、私は何をしてるんだろう。
翌日、琴葉は大学の授業が終わった後に自宅からも大学からも離れている本屋に足を運んでいた。本の種類が充実している店舗で、ここになら琴葉のほしい「正解」が載っている本があると思った。
でも、予想に反して良い本がなかなか見つからなくて、琴葉は悶々と考えながら本屋の入っている百貨店ふらふら歩いていた。
そんな時、見つけてしまったのだ。今日は予定があるから会えないと謝っていた理玖が、栗色の髪を綺麗に巻いた、スラッと背の高い美しい女性と歩いているところを。
思わず二人の後を隠れるように追いかけてしまった。
あの優しくて大切にしてくれる理玖が浮気をするとは思えない。そう思うのに、どこかで不安は拭えなくて、足が止まってくれない。
二人は買い物をしていたのだろうか。理玖が、両手一杯に紙袋を持っている。その腕に――女性が腕を絡ませている。理玖が嫌がる素振りは全くなくて、綺麗な女性と笑い合っていた。
すごく近い距離。琴葉と一緒に歩いている時のような。女性に向ける笑顔だって、気遣う仕草だって、同じだ。
そう気づいてしまって、琴葉はその場に立ち尽くした。
「琴葉さん、どうしたの?疲れた?」
昨日一緒にいた女性は誰?
聞いてもいいのだろうか。重いと思われない?
昨日一緒にいたのは誰ですか。その一言で、今まで築いてきた関係が壊れてしまったらと思うとすごく怖い。
そんなことをデート中に考えてしまったから、理玖が心配そうに顔を覗き込んできた。
「いえ、少し考え事をしていて。大丈夫です」
理玖の態度は以前と全く変わらない。やましいことなんてしていないと思うのに、琴葉のモヤモヤは募っていくばかりだった。
「う~ん、でも、レポートの締め切りが立て込んでたんでしょ?今日は早めに帰ろうか」
食べ終わったら帰ろう、と言われ、琴葉は自分のお皿に残っているハンバーグを見つめた。あと半分しか残っていない。これを食べ終わったら、月島くんと離れることになる。
――寂しいな。全然一緒にいられない
今振り返ると、高校生の時は恵まれていたと思う。同じ学校だったから、何をしなくても週に5回は必ず会えるし、休日だって約束をすれば会えた。
大学生になれば自由な時間が増えると言うけれど、同じ大学でなければ偶然会えることもないし、学部が違えば授業が被ることもない。
お互いに「会いたい」という思いがなければ、関わりがなくなってしまう。そう考えていたら、恋人関係というのは、とても脆くて儚いものに思えてきてしまった。
「あ、ここのパスタ美味しいんだって。今度食べに来ようか」
夕食を食べ終えて、駅に向かって歩きながら理玖が言った。
次があることにホッとする気持ちと、このお店のパスタが美味しいのだと誰に聞いたのか――昨日一緒にいた人から聞いたのではないかと邪推してしまう自分がいる。
すごく嫌だ。月島くんはそんな人じゃないのに。分かってるのに、嫌な自分を止められない。月島くんに優しくされればされるほど、自分の嫌な部分が顔を出すようだ。
「琴葉さん?」
何も言わない琴葉を、理玖が心配そうに覗き込んできた。
ああ、今日は月島くんにこんな顔ばかりさせている。いつもはもっと、楽しそうに笑いかけてくれるのに。琴葉が、モヤモヤしているせいで。
モヤモヤを断ち切りたいなら――
「月島くん」
琴葉は足を止めた。いきなり止まった琴葉に、手を繋いでいた理玖が少し引っ張られる形になって、琴葉の方へ振り向いた。
「どうしたの?」
そう穏やかに笑う理玖と目が合い――琴葉は口を開いた。
「・・・・・・今日、月島くんのお家に行きたいです」