Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
マスターは、静かに新しいワインを注ぐ。

この夜はまだ、
秘密を抱えたまま、続いていく。

「踏み込まないという礼儀」

「木村さんは、いつもひとりなんですか」

自然な問い。

けれど、ほんの少しだけ核心に触れている。

希はすぐには答えない。

視線をグラスに落とす。

赤い液体の奥に、自分の影が揺れている。

「はい。ひとりになりたい時来るんです」

声は柔らかい。

けれど、その奥には境界線がある。

ここから先は、入らないで。

「誰かと来たことは?」

旬の声は穏やかだ。

問いは軽い。

けれど一歩、踏み込んでいる。

希はゆっくり顔を上げる。

目は静か。

怒りも、戸惑いもない。

ただ、澄んでいる。

「ありません」

それ以上は言わない。

過去も理由も、説明しない。

旬も聞かない。

それが礼儀だと知っている。

踏み込まないこと。

追わないこと。

この店の空気と同じ距離感。

「そうですか」

それだけ。

けれど、その二文字に余計な失望はない。

むしろ、どこか安堵が混じる。

ここは彼女の避難所。

誰とも共有していない場所。

それを守ってきた強さが、
少しだけ愛おしい。



時間が過ぎる。

ワインが減る。

店内の灯りが、ほんのわずかに深くなる。

本は閉じない。

ページは開いたまま。

けれど、視線は隣へ向けられている。

帰る気配もない。

マスターは内心、驚いている。

(これは、初めてだ)

いつもなら。

一定の時間が来れば、
すっと本を閉じる。

「今日はここまで」

その言葉が合図。

誰にも踏み込ませない。

でも今日は違う。

会話は、ゆるやかに続く。

沈黙すら、自然だ。

ひとりでいるための場所に、
誰かがいてもいい夜。

希が小さく笑う。

旬も、少しだけ肩の力を抜く。

知らないふりの距離。

けれど確実に、
その境界線はやわらいでいる。

三度目の偶然は、
もう始まっているのかもしれない。
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