Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
このバーは、旬が25歳の時に買った。

まだ若く、肩書きよりも
「三男」という言葉が先に付いていた頃。

大手青山不動産会社の三男。

表の顔は冷静なエリート。

数字に強く、判断は早い。

感情を表に出さない。

けれど彼は知っている。

都会で戦う人間には、
鎧を脱げる場所が必要だと。

評価も肩書きも関係なく、
ただ呼吸を整えられる場所。

だからここは——

“干渉しない”がルール。

無理に話しかけない。
過度に親しくならない。
必要以上に踏み込まない。

オーナーであることは、
常連にもほとんど明かしていない。

旬は、ただの客でいる。

もちろん希も知らない。

隣でグラスを揺らしている男が、
この空間を設計し、守り、
そして今、彼女の笑顔を静かに見つめていることを。

「余白、ちゃんとありますね」

希がぽつりと言う。

旬は横目で見る。

「足りてますか?」

「ええ。今のところは」

その言葉に、旬の胸の奥が
わずかに温度を持つ。

今のところ。

未来を否定していない響き。

知らない顔のオーナー。

知らないままでいる距離。

けれど三度目の偶然は、
もうすぐ選択に変わる。
< 11 / 34 >

この作品をシェア

pagetop