Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
その日希を家まで送り届けて、車を走らせる。

ドアが閉まる音。
バックミラー越しに見えた、小さく手を振る姿。

アクセルを踏む。

いつもと同じ帰り道。
見慣れた街灯。
流れるテールランプ。

いつもと同じはずなのに、どこか違う。

胸の奥が、ざわついている。

赤信号で止まる。

ハンドルに置いた指が、無意識に強くなる。

「希!」

頭の中で、あの声が響く。

呼び捨て。

迷いもなく、ためらいもなく。

あの距離。
あの視線。
あの空気。

長い時間を共有してきた者だけが持つ、自然さ。

希の名前を、あんなふうに呼べる男。

自分はまだ、どこか遠慮がある。

大切にしすぎているのか。
失うのが怖くて、一歩引いているのか。

青に変わる。

発進しながら、息を吐く。

今日、希は自分の腕に触れた。
「旬だけ」と言った。

あの目は、嘘じゃない。

わかっている。

それでも。

過去というものは、厄介だ。

消せない。
塗り替えられない。

歩は、希の“始まり”を知っている。

自分は、希の“今”を知っている。

じゃあ、未来は——?

アクセルを少し強く踏む。

焦りか。
悔しさか。

それとも、ただの男の意地か。

信号が流れていく。

旬は、ふっと小さく笑う。

「情けないな……」
嫉妬している。

はっきりと。

でもそれは、失いたくないという感情の裏返しだ。

希は、自分を選んだ。

あの名刺を受け取った手は、
帰り際、自分の袖を掴んでいた。

思い出す。

胸の奥のざわめきが、少しだけ静まる。

ハンドルを握り直す。

遠慮している場合じゃない。

名前を呼ぶことくらいで、揺らぐな。

次に会ったら、

自然に呼ぼう。

「希」って。

誰よりも、近い距離で。
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