Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
「……旬」

ゆっくりと近づく。

テーブルを回り込み、
旬の前に立つ。

距離が縮まる。

「本当に大丈夫?」

まっすぐな問い。

旬は視線を逸らさない。

「大丈夫」

即答。

迷いなく。

でも。

その“即答”が、
逆に希の胸に小さな違和感を残す。

速すぎる。

考える前に出た言葉みたいに。

希は、もう一歩近づく。

旬の手を取る。

冷たい。

「ねえ」

声が、少し柔らかくなる。

「まだ嫉妬してる?」

旬の喉が、ほんのわずかに動く。

何かを飲み込む音。

沈黙。

否定しない。

肯定もしない。

その沈黙が、答えだった。

希は、そこで初めて理解する。

——あ、揺れてる。

胸が、きゅっとなる。

旬が、傷ついていることに。

余裕でいようとして、
平気な顔をして、

でも本当は、
怖くて、不安で、

それでも自分を縛らないようにしてくれている。

希は、両手で旬の手を包む。

「ねえ」

今度は、もっと近い距離で。

「私、会わなくてもいいよ」

静かな声。

「旬が嫌なら、会わない」

旬の目が、わずかに揺れる。

“嫌”と言えば、楽になる。

でも、それは違う。

自分が選びたいのは、束縛じゃない。

信頼だ。

旬は、ゆっくり首を振る。

「違う」

低い声。

「嫌だからじゃない」

正直に、息を吐く。

「……嫉妬はしてるし、動揺もしてる」

初めて、はっきり言う。

「でも、それとこれとは別」

希の胸が、熱くなる。

強い人だと思っていた。

でも今は、

強いんじゃない。

ちゃんと弱さを見せてくれている。

それが、こんなにも愛しいなんて。

希は、両手で旬の顔を包む。

逃げ場をなくすみたいに、でも優しく。

「私が好きなのは、旬だよ」

まっすぐな瞳。

迷いは、ない。

「歩のことは好きじゃない」

はっきり言う。

濁さない。

旬の目が、わずかに揺れる。

「前は好きだった?」

低い声。

確認せずにはいられない。

希は、小さく笑う。

「高校生の頃の恋」

懐かしむような響き。

「今は違う」

その一言が、静かに落ちる。

旬の胸の奥が、少しだけほどける。

固く結ばれていた糸が、ゆるむ。

でも、完全には消えない。

過去は、なかったことにはならないから。

「……会うの?」

今度の問いには、本音が混じる。

余裕も、建前も、半分だけ。

希は少し考える。

沈黙が、二人の間に落ちる。

「旬が嫌なら、会わない」

これも、本音。

どちらを選ぶかではなく、
旬の気持ちをちゃんと置いた答え。

旬は、ゆっくり息を吐く。

その言葉が、嬉しい。

でも、同時に苦しい。

自分次第で、彼女の行動が決まる。

だからこそ、逃げたくない。

「……会ってこいよ」

少しの沈黙のあと、そう言う。

今度は、強がりじゃない。

優しさの方が、勝つ。

「ちゃんと区切りつけてこい」

自分のためじゃなく、
希のために。

希は、しばらく旬を見つめる。

その顔にある、揺れと覚悟を、全部受け取る。

そして、軽く抱きしめる。

その夜。

二人は、いつもより強く抱き合う。

言葉は少ない。

でも、指先の力が違う。

旬の腕に、少しだけ力が入る。

失わないように、
確かめるように。

希は、それを感じる。

——この人、ほんとに揺れてる。

強いと思っていた背中が、
今は少しだけ、繊細に見える。

だから、そっと背中を撫でる。

大丈夫だよ、と言う代わりに。

初めて、希は守る側になる。

好きな人の不安を、
自分の腕の中で静めようとする。

夜は深く、静かに流れる

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