Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
白い空間。
天井が高く、音が吸い込まれていく。

静かだ。

中央に、巨大な作品。

淡い光の中に浮かぶ、女性の横顔。
やわらかい輪郭。
伏せた睫毛。
どこか遠くを見る視線。

希は、足を止める。

隣に、歩が立つ。

「ロンドン行ってすぐに描き始めた」

その一言で、時間が巻き戻る。

放課後の美術室。
絵の具の匂い。
西日の差し込む窓。

あのとき、自分を見ていた視線。

同じだ。

歩は言わない。

“君だ”とは。

でも、言わないことが、余計に強い。

二人は並んで作品を見上げる。

最初は近況報告。

パリ、ニューヨーク、個展。
Minoのこと。
新しいプロジェクト。

自然な会話。
大人の距離。

でも空気の奥に、細い糸が張り詰めている。

沈黙が落ちる。

歩が先に口を開く。

「なんで、あの時、何も聞かなかった?」

希の指先が止まる。

「何を?」

「俺がロンドン行くとき」

視線は真っ直ぐ。
逃げない目。

希は、少し息を吸う。

「私も後から行くつもりだった」

即答。

歩が小さく笑う。

「え?」

短い間。

そして——

「本当はさ」

声が、低くなる。

「待っててほしかった」

空気が変わる。

希の胸が、わずかにざわつく。

それは恋ではない。

“もしも”の感情。

歩は続ける。

「でも言えなかった」
「成功する保証もなかったし」
「縛りたくなかった」

希は目を伏せる。

あのメール。

“もう待たないで”

あれは、優しさだったのか。

胸の奥に、細い痛みが走る。

「……ずるいよ」

ぽつりとこぼれる。

歩が眉を上げる。

「言ってくれればよかったのに」

歩は少し笑う。

「言ったら、待った?」

希は答えられない。

もし、あの時。

待っていたら。
ロンドンに行っていたら。

今のMinoはあった?
今の自分は?
今の旬は?

思考が、一瞬だけ揺れる。

歩が静かに言う。

「今、幸せ?」

核心。

希は顔を上げる。

「……うん」

即答ではない。

ほんの少し、間がある。

歩はそれを見逃さない。

「その“間”は何?」

優しい声。
でも、刺さる。

希は苦笑する。

「過去がいきなり現れたから、びっくりしてるだけ」

正直な言葉。

歩は小さく息を吐く。

「俺は、びっくりじゃ済んでない」

その目が、わずかに熱を帯びる。

「会って、思い出した」

希の心臓が大きく鳴る。

歩は一線を越えない。
触れない。

でも、言葉は越える。

「まだ好きかもしれない」

静かな告白。

逃げ道を残さない声。

希の中で何かが揺れる。

それは愛ではない。

でも、“特別だった人”に言われる重さ。

胸が熱くなる。
すぐには言葉が出ない。

沈黙。

歩は追い詰めない。

「返事はいらない」

「ちゃんと会えてよかった」

そして、最後に言う。

「迎え、来てるんだろ」

希の目が揺れる。

見抜かれている。

歩は少し笑う。

「行きな」

背中を向ける。

その背中は、あの頃よりも少し広くて、
でもどこか同じで。

放課後の記憶が、一瞬よぎる。

もし、あの時。

——でも。

希は深呼吸する。

今の足で、歩く。

ギャラリーの扉を開ける。

外は夕暮れ。
淡いオレンジ色が街を包む。

少し離れた場所に、旬の車。

エンジンはかかっていない。
ただ、待っている。

胸が、まだざわついている。

——私は、揺れた。

否定はできない。

でも。

選ぶのは、今。

希は、一歩前に進む。
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