Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
希をギャラリーの前で降ろした。

白い壁。ガラス張りの扉。
午後の光が静かに反射している。

「終わったら連絡して」

それだけ言った。

余計なことは言わない。
平静を装って。

ドアが閉まる。

希の背中が、少しずつ遠ざかる。

振り返らない。

まっすぐ、歩いていく。

その姿が角を曲がった瞬間、
胸の奥が、ずしりと重くなる。

——今、あいつと向き合ってる。

エンジンを踏む。

表参道の通りは、いつも通り穏やかだ。
カフェのテラス、並木道、信号待ちの人々。

世界は何も変わらない。

変わっているのは、自分の内側だけ。

信号で止まるたび、
余計な想像が浮かぶ。

歩。

ロンドン。

成功している男。

昔からの特別。

自分にはない“過去”。

ハンドルを握る手に力が入る。

「……バカだな俺」

希は戻ってくると言った。

迎えに来て、と言った。

あれは本音だ。

分かっている。

信じている。

でも——

怖い。

コンビニに寄る。

コーヒーを買う。

ほとんど飲まない。

時間を潰すためにスマホを見る。

メッセージはない。

当たり前だ。

会ってまだ三十分。

たった三十分。

なのに体感は、二時間。

車のシートに深く沈む。

目を閉じると、希の声がよみがえる。

『終わったら旬の顔見たい』

あの声。

甘えない希が、言った。

あれは本物だ。

なのに。

歩が——

「待っててほしかった」とか言っていたら?

もし、「まだ好きだ」と言ったら?

希は優しい。

過去を、大切にする。

胸がざわつく。

「俺なんかじゃ太刀打ち出来ない」

ぽつりと漏れる。

歩は世界を見てきた男。

自分は、地に足をつけて生きてきただけ。

比べたくない。

でも、比べてしまう。

時間を見る。

一時間経過。

まだ連絡はない。

行くか?

近くまで。

いや。

約束は、“終わったら”。

信じろ。

信じないと、守れない。

エンジンをかける。

ギャラリーから少し離れた通りに車を停める。

見えない距離。

でも、すぐ行ける距離。

それが、今の自分の精一杯の余裕。

スマホが鳴る。

希。

短いメッセージ。

『終わったよ』

それだけ。

顔が一瞬で緩む。

同時に、怖さも押し寄せる。

どんな顔で出てくる?

泣いてる?

笑ってる?

揺れてる?

アクセルを踏む。

ギャラリー前に車を回す。

ガラス越しに、希が出てくる。

歩の姿は見えない。

希は一度、立ち止まる。

空を見上げる。

深く、息を吸う。

その仕草だけで分かる。

——何かあった。

でも。

逃げてはいない。

希は車に気づく。

目が合う。

一瞬。

そして、微笑む。

その笑顔は、少しだけ揺れている。

強がりでも、迷いでもない。

揺れた上で、戻ってきた顔。
< 137 / 161 >

この作品をシェア

pagetop