Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
旬の会社
「佐伯さん、三浦さんという方からお電話です」
書類から目を上げる。
「“アユムって言えばわかる”って。どうします?」
一瞬、空気が止まる。
——歩。
胸の奥がわずかに反応する。
だが、旬の表情は動かない。
「……つなげてください」
受話器を取る。
「佐伯です」
低く、平坦な声。
向こうは、ほんの少し間を置いてから。
『三浦です』
落ち着いている。
余裕を含んだ響き。
『突然すみません。少しだけ、お時間もらえますか』
「内容によります」
『二人で話したい』
さらに一拍。
『希には内緒で』
ぴくり、と旬の眉が動く。
声は冷たい。
「どういう意味ですか」
『そのままの意味です』
挑発ではない。
静かな、まっすぐな声。
逃げも隠れもしない音。
旬は数秒考える。
逃げる理由はない。
「今日、19時。会社近くのバーで」
短く告げて、受話器を置いた。
薄暗い照明。
グラスに氷が触れ合う音。
低く流れるジャズ。
先に来ていたのは歩だった。
カウンター席。
ウイスキーをゆっくり回している。
扉のベルが鳴る。
歩が振り向く。
目が合う。
あの日以来。
でも互いの存在は、ずっと意識の中にあった。
旬は隣に座る。
「同じものを」
歩のグラスをちらりと見る。
氷が、からん、と鳴る。
「わざわざ会社に電話までして」
旬が先に切り出す。
歩は視線を落としたまま答える。
「連絡先を知らなかったので」
「希に聞けばよかったんじゃ?」
わずかに刺す。
歩はゆっくり顔を上げる。
「あなたと話したかったからです」
真正面。
逃げない。
旬のグラスがカウンターに置かれる。
小さな音。
「用件は」
歩は一口飲む。
「あなたがどんな人か、知りたくて」
旬は苦く笑う。
「面接ですか」
「ええ」
あっさり。
「俺は一度、希を手放した」
空気がわずかに重くなる。
「夢を選んだ」
視線は揺れない。
「その結果、今の俺がある」
旬は黙って聞く。
歩は続ける。
「正直に言います」
短い沈黙。
「まだ、完全には諦めきれていない」
氷が溶ける音。
旬の視線が鋭くなる。
「それ、俺に言う必要あります?」
歩は揺れない。
「あなたが少しでも揺らぐなら、俺は待つ」
静かな宣言。
挑発でも威嚇でもない。
ただ、事実。
旬は笑う。
だが目は笑っていない。
「揺らぎませんよ」
低く、はっきりと。
歩の指先が止まる。
一瞬、空気が凍る。
歩はゆっくり息を吐く。
バーの奥でグラスが鳴る。
歩がぽつりと落とす。
「希は揺れましたよ」
試すような一言。
旬の瞳が一瞬だけ動く。
だが、すぐに戻る。
「でも戻らなかった」
断言。
迷いなし。
歩は、ほんの少しだけ笑う。
敗北の笑みではない。
理解の笑み。
「あなたなら、大丈夫そうだ」
旬は最後に言う。
「希には言いません」
歩も頷く。
「そのつもりです」
二人は握手しない。
ただ、グラスを軽く持ち上げる。
無言の決着。
⸻
バーの外。
夜風が冷たい。
旬はスマホを見る。
《希》
『今日遅いね?』
画面を見た瞬間、表情が柔らぐ。
「うん、ちょっとだけ」
小さくつぶやく。
空を見上げる。
心は、もう静かだ。
戦う必要はない。
隣にいる人は、決まっている。
旬は歩き出す。
帰る場所へ。
「佐伯さん、三浦さんという方からお電話です」
書類から目を上げる。
「“アユムって言えばわかる”って。どうします?」
一瞬、空気が止まる。
——歩。
胸の奥がわずかに反応する。
だが、旬の表情は動かない。
「……つなげてください」
受話器を取る。
「佐伯です」
低く、平坦な声。
向こうは、ほんの少し間を置いてから。
『三浦です』
落ち着いている。
余裕を含んだ響き。
『突然すみません。少しだけ、お時間もらえますか』
「内容によります」
『二人で話したい』
さらに一拍。
『希には内緒で』
ぴくり、と旬の眉が動く。
声は冷たい。
「どういう意味ですか」
『そのままの意味です』
挑発ではない。
静かな、まっすぐな声。
逃げも隠れもしない音。
旬は数秒考える。
逃げる理由はない。
「今日、19時。会社近くのバーで」
短く告げて、受話器を置いた。
薄暗い照明。
グラスに氷が触れ合う音。
低く流れるジャズ。
先に来ていたのは歩だった。
カウンター席。
ウイスキーをゆっくり回している。
扉のベルが鳴る。
歩が振り向く。
目が合う。
あの日以来。
でも互いの存在は、ずっと意識の中にあった。
旬は隣に座る。
「同じものを」
歩のグラスをちらりと見る。
氷が、からん、と鳴る。
「わざわざ会社に電話までして」
旬が先に切り出す。
歩は視線を落としたまま答える。
「連絡先を知らなかったので」
「希に聞けばよかったんじゃ?」
わずかに刺す。
歩はゆっくり顔を上げる。
「あなたと話したかったからです」
真正面。
逃げない。
旬のグラスがカウンターに置かれる。
小さな音。
「用件は」
歩は一口飲む。
「あなたがどんな人か、知りたくて」
旬は苦く笑う。
「面接ですか」
「ええ」
あっさり。
「俺は一度、希を手放した」
空気がわずかに重くなる。
「夢を選んだ」
視線は揺れない。
「その結果、今の俺がある」
旬は黙って聞く。
歩は続ける。
「正直に言います」
短い沈黙。
「まだ、完全には諦めきれていない」
氷が溶ける音。
旬の視線が鋭くなる。
「それ、俺に言う必要あります?」
歩は揺れない。
「あなたが少しでも揺らぐなら、俺は待つ」
静かな宣言。
挑発でも威嚇でもない。
ただ、事実。
旬は笑う。
だが目は笑っていない。
「揺らぎませんよ」
低く、はっきりと。
歩の指先が止まる。
一瞬、空気が凍る。
歩はゆっくり息を吐く。
バーの奥でグラスが鳴る。
歩がぽつりと落とす。
「希は揺れましたよ」
試すような一言。
旬の瞳が一瞬だけ動く。
だが、すぐに戻る。
「でも戻らなかった」
断言。
迷いなし。
歩は、ほんの少しだけ笑う。
敗北の笑みではない。
理解の笑み。
「あなたなら、大丈夫そうだ」
旬は最後に言う。
「希には言いません」
歩も頷く。
「そのつもりです」
二人は握手しない。
ただ、グラスを軽く持ち上げる。
無言の決着。
⸻
バーの外。
夜風が冷たい。
旬はスマホを見る。
《希》
『今日遅いね?』
画面を見た瞬間、表情が柔らぐ。
「うん、ちょっとだけ」
小さくつぶやく。
空を見上げる。
心は、もう静かだ。
戦う必要はない。
隣にいる人は、決まっている。
旬は歩き出す。
帰る場所へ。