Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
希がシャワーを浴びている。

浴室から、水の落ちる規則正しい音。

ドライヤーのスイッチが入る前の、
静かな時間。

旬はソファに体を預け、何気なくスマホを眺めていた。

特に意味はない。

ただ、指が勝手にスクロールしている。

ニュース。
広告。
誰かの投稿。

そして——

指が止まる。

ayumu miura

見覚えのある名前。

アルファベットでも、すぐに分かる。

あれ以来。

なぜか見つけると、読んでしまう。

確認したいのか。
安心したいのか。
それとも。

自分でも分からない。

一瞬だけ迷って、開く。

インタビュー記事。

大きな写真。

歩が写っている。

柔らかく笑っている。

あのバーで向き合った時とは違う、
公の顔。



記者
「恋人は?」

写真の横に、文字が続く。

歩のコメント。

「先日帰国した時に迎えに行ったんですけどね。もう、彼女には大切にしてくれる人がいました」

旬の指が、ぴたりと止まる。

迎えに行った。

その言葉に、胸の奥がかすかに反応する。

あの夜のことだ。

自分が車を走らせた、あの夜。

歩は少し笑っている、と記事は書いている。

「あと1年早ければチャンスがあったかもしれません」

旬の眉が、わずかに動く。

1年。

その数字が、妙に具体的で、
妙に生々しい。

記者
「何年越しに迎えに?」

「7年です。」

短い答え。

潔い。

「……その間連絡は?」

「一切してません」

画面越しなのに、
記者が小さく息をのむ空気まで伝わる。

“ayumuさん、それは無謀だ”

記事の中で、記者がそう書いている。

歩が笑う。

写真の中でも、文の中でも。

余裕のある、大人の笑み。

旬はスマホを持ったまま、しばらく動かない。

7年。

連絡なし。

それでも迎えに来た。

その事実が、じわりと胸に広がる

記者の軽い追い質問。

“その相手の方は、どんな人なんですか?”

歩の写真。

少しだけ目を細めて、笑っている。

そして、その一文。

「ですよね。で、その相手がまあ、男の俺から見てもかっこいい男なんですよ」

旬の指が止まる。

呼吸も、わずかに止まる。

冗談めかした文章。

軽いトーン。

でも。

続く言葉は、思ったより静かだった。

「もう敵わないなって。やっぱり彼女、見る目あるなって。ちょっと誇らしかったです。」

数秒の沈黙。

部屋は静かだ。

浴室からはもう、ドライヤーの音がしている。

温かい風の音。

現実の生活音。

旬は画面を見つめたまま、何も動かない。

敵わない。

誇らしい。

その言葉は、負け惜しみには見えなかった。

強がりでも、皮肉でもない。

まっすぐな降参。

そして最後に、

「なので、絶賛募集中です!」

記事は明るく締められていた。

軽やかに。

何事もなかったように。

旬は、ふっと息を吐く。

笑いが、ほんの少しだけ漏れる。

……あの男らしい。

真正面から来て、
真正面から引いた。

美しく負けることを、選んだ。

スマホの画面を閉じる。

胸の奥に残っていた、わずかな棘が、ゆっくり溶けていく。

敵わない、か。

誇らしい、か。

それはきっと、本音だ。

旬はしばらく、画面を見つめたままだった。

嫉妬でもない。
怒りでもない。

胸の奥にあるのは、ただ静かな感情。

七年。

連絡もせずに、ただ想いだけを持ち続けて、
そして迎えに来た男。

無謀で、まっすぐで、少しだけ不器用。

「……バカだな」

小さく呟く。

けれどその声は、どこか優しかった。

リビングのドアが開く

希が入ってくる

「なに見てるの?」

無防備な声。

旬は一瞬だけ迷ってから、スマホを差し出す。

「希、これ見て」

希が隣に座り、画面を覗き込む。

肩が触れる。

シャンプーの匂いがふわりと広がる。

記事を読み進めるうちに、希の表情が揺れる。

驚き。
苦笑。
ほんの少しの懐かしさ。

そして最後まで読んで、静かに息を吐いた。

「……歩らしい」

旬は横目で希を見る。

「迎えに来るの、遅すぎだろ」

希は少しだけ笑う。

「うん。遅い」

その言い方に、未練はない。

ただ事実としての時間。

旬はスマホをテーブルに置く。

そして希の手を引き、軽く自分の方へ寄せる。

「七年も待たなくてよかったな」

低い声。

独占でも、誇示でもない。

ただ本音。

「俺は見つけたら、離す気なかったし」

希が見上げる。

まっすぐな瞳。

「知ってる」

その二文字に、迷いはない。

間。

静かな呼吸。

「旬」

「ん?」

「歩、ちゃんと前向いてるね」

旬は小さくうなずく。

「あいつ、ちゃんと負け認めてる」

勝ち負けの話ではない。

けれど、けじめはついた。

敵意はもうない。

誇りもいらない。

ただ、それぞれが選んだ道を歩くだけ。

「……ありがとな」

ぽつりと零れる。

希が驚いて顔を上げる。

「え?」

「来てくれて」

七年待った男より。

その瞬間、手を伸ばした自分がここにいる。

でも——

選んだのは、希だ。

希はそっと、旬の胸に額を預ける。

「迎えに来たのは旬だよ」

旬の腕が、自然に強くなる。

「違う」

低く、でも優しく。

「希が俺を選んだ」

その事実が、何よりも重い。

静かな夜。

外は風もなく、世界は穏やかだ。

過去はもう、追いかけてこない。

歩は前へ。

旬と希も前へ。

それぞれの覚悟を持って。

けれど——

どこかで互いを認め合っているからこそ、

この物語は、焦げ跡もなく、
静かに続いていく。
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