Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
旬はグラスを受け取り、
隣ではなく、ひと席空けて座る。

距離を測るように。

ワインをひと口。

重すぎない、という注文通りの味。

沈黙が落ちる。

けれど気まずくはない。

ページをめくる音。
氷の溶ける小さな響き。
グラスが触れる音。

それぞれが、それぞれの時間を持っている。

やがて旬が静かに言う。

「その写真集、好きなんですか」

希は顔を上げる。

「ええ。空間って、写真になると嘘がつけないから」

少しだけ目が合う。

旬は頷く。

「たしかに。箱も、誤魔化しはききません」

“箱”。

あのときの言葉。

希の口元が、ほんのわずかに緩む。

偶然は、まだ偶然の顔をしている。

けれど二人の間には、
前回よりも確かに近い温度があった。

静かなバーの中で、
グラス越しに、また美しさが交差する。

数分後。

静かな時間の流れに溶け込むように、

声は低く、空気を乱さない温度。

希は視線をページに落としたまま、
小さく微笑む。

インクの匂い。
紙の手触り。
完成された“間”。

自分が作る側でありながら、
誰かの作った空間に触れる時間が好きだった。

旬はグラスを傾ける。

「この前のイベント、素晴らしかったです」

確認するような、でもどこか確信を含んだ言い方。

希はワインをひと口。

深いルビー色が、唇に一瞬だけ艶を残す。

「佐伯さんの会社のビルですよね」

視線を上げる。

「良い“余白”がありました」

その一言に、旬の目が少し柔らぐ。

余白。

それを評価する人は少ない。

テナント効率を求めれば、
余白は削られる。

収益性を優先すれば、
空白は無駄になる。

それでも旬は、あえて残した。

人が立ち止まるための場所。
光が溜まるための空間。

「……気づいてくれる人、少ないんです」

思わず本音が漏れる。

希は小さく肩をすくめる。

「余白があると、空間が息できるから」

あのとき言った言葉と、同じだ。

——空間は呼吸していないと。

旬は、ゆっくりと頷く。

「木村さんに褒められると、設計チームが喜びます」

半分は冗談。

半分は本気。

希は穏やかに答える。

「伝えてください」

それだけ。

自分の評価がどう扱われるかに興味はない。

ただ、作った人に届けばいい。

カウンターに、また静かな沈黙が落ちる。

けれど今度は、最初より少し近い。

余白を理解する者同士の、
穏やかな距離。
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