側妃マリアの謀
ルンハルト殿下の寝室に足を踏み入れると、そこにはルンハルト殿下とアルヴィン卿のふたりがいた。
「マリア! こんに……こんばんは!」
いつも会うのは昼なので、ルンハルト殿下が言い直す。それに笑みを返して、私はアルヴィン卿と同じように、木を削っただけのような椅子とも言えない椅子に腰を下ろす。
ルンハルト殿下の寝ているベッドも、ベッド本体は木造だけれど、かけられているタオルケットやシーツは、ほつれている上に傷んでいるためか、生地が薄い。
ルンハルト殿下はいそいそと体を起こすと、アルヴィン卿が持っていた絵本を私にみせた。
「いまね、アルヴィンにこれ、よんでもらってた!」
表紙を見るが、私の知らないお話のようだ。
「どういうお話なのですか?」
「これはね、わるいモンスターを、おうさまがたおすはなし!」
つまり、英雄譚だ。男の子が好きそうなお話ね、と思って微笑ましく思っていると、ルンハルト殿下は急に、絵本をベッドに置いてしまう。
どうしたのだろうと思っていると、アルヴィン卿が苦笑してルンハルト殿下を呼ぶ。
「ほら、ルンハルト」
「でも……」
「大丈夫だよ。マリア妃なら」
「…………うん」
消え入りそうな声でルンハルト殿下は頷くと、上目遣いで私を見た。
「あのね、マリア……あのね」
「はい」
急かさないように、ゆっくりとした声を心がけて、私はルンハルト殿下に答えた。
ルンハルト殿下は少しの間迷っていたようだけれど、やがて決心がついたのだろう。パッと顔を上げて、まるで宣言するように言った。
「あのね!! ぼくのこと!! ルンハルトって、よんで、ほしいの!!」
私は、その声の大きさに目を見張った。
だけどすぐに、彼の言っていることを理解して、私は目を瞬かせた。驚く私に、ルンハルト殿下は途端、不安げな声を出した。
「あの……だめ……? マリア……」
「えっ!?」
驚きのあまり、私もまた、声が大きくなってしまう。じわじわとルンハルト殿下の目が潤む。それに動揺して、私はしどろもどろに言った。
「いえ、そんなことは……ない、のですが」
でも、良いのだろうか。
ルンハルト殿下は、王子だ。親しげに話すのは、良くないのでは……。これは、ある種の私のケジメのようなものだった。
どんなにルンハルト殿下に甘えられようと、私は他人だ。
私は、ルンハルト殿下の母親にはなれない。
弁えなければならない。
立場を履き違えてはならない。
そう、意識的にも、無意識にも、自身を戒めていた。ルンハルト殿下を敬称で呼ぶのも、丁寧に話すのも、それが理由だった。
私が戸惑っていると、私たちのやり取りを聞いていたアルヴィン卿が口を開いた。
「呼んであげてください」
「……いいのでしょうか」
「誰がダメと言うんですか? 他でもない、ルンハルトが望んでいるんです。あなたを」
アルヴィン卿の声は真摯で、嘘がない。
ルンハルト殿下を見ると、彼は期待と不安の籠った目で私を見ていた。
(ルンハルト殿下が、望んでいる……)
もしかしたらルンハルト殿下はその呼び方に、話し方に、距離を感じたのかもしれない。
(私は、ルンハルト殿下を傷つけてまで自分の意志を貫きたいわけじゃない)
私はルンハルト殿下を見つめると、ゆっくり彼の名前を呼んだ。初めて、敬称を付けずに。
「──ルンハルト」
「っ……!!」
ぱあ、とルンハルト殿下……ルンハルトが、嬉しそうに目を輝かせる。ぷにぷにのほっぺを膨らませて、ルンハルトが笑った。
「マリアだいすき!!」
「きゃっ…」
急にルンハルトが抱きついてきて、思わずバランスを崩す。あわや、本日二度目の転倒かと思いきや、しっかり私の背を抱きとめてくれたひとがいた。
アルヴィン卿だ。
「……ありがとうございます」
先程の助言といい、支えてくれたといい、二つの意味で私はアルヴィン卿に感謝の気持ちを口にした。アルヴィン卿はふわりと笑みを浮かべると、私から手を離した。
「こちらこそ、ありがとうございます。マリア妃」
その後、私はルンハルトにプレゼントを贈った。彼はチョコレートが好きなようだったので、ダリアに買ってきてもらった、流行りのチョコレートの詰め合わせだ。
ルンハルトはプレゼントを喜んでくれたけれど、彼の名前を呼んだ時の方がずっと、ルンハルトは嬉しそうにしていた。
きっと、ずっとルンハルト呼んで欲しかったのだろう。彼の気持ちを考えると嬉しいような、胸がくすぐったくなるような、ふわふわとした気持ちになる。
(どうか、この子が幸せになりますように)
疲れて眠ってしまったルンハルトを見て、私は静かに祈りを捧げた。
そうして、忙しかった聖夜祭が終わり──いよいよ、祝賀祭の季節となる。