側妃マリアの謀
「そういった規則がございますの?」
「まあ。規則ではなく、不文律……。暗黙のルールですの。ご存知ないのなら、これを機に改めてくださいね」
「申し訳ございません。よろしければ、教えてくださっても良かったのに。恐れながら私は何も知らず、無知のまま嫁いでまいりました。この国での常識、慣習はセラフィーナ様が一番お詳しいのでしょう?」
「あら……私に教えろと?」
「差し支えがなければ、ぜひ」
にこりと微笑んで答えると、セラフィーナ様も同様に微笑んだ。
「機会があれば」
間に挟まれる形のマチルダ様は、線の細い方だった。ブルネットの髪を編んで胸元に垂らしており、顔は伏せているため見えない。
私たちと目を合わせたくないのか、彼女はずっと俯いていた。その仕草から、この場にいたくないのが手に取るようにわかる。
(私が嫁いでくるまでは、このセラフィーナ様とふたりきりだったのだから……無理もないかしらね)
よほど意志が強靭でない限り、この第一側妃に良いようにされてしまうだろう。見る限り、マチルダ様は気が強いわけではないようだから。
沈黙を守る彼女を、セラフィーナ様が呼んだ。
「マチルダ様、お久しぶりですわね?」
突然声をかけられたことに、相当驚いたのだろう。ビクッと肩を跳ねさせて、マチルダ様が顔を上げる。
空色の目が印象的な、穏やかそうなひとだった。彼女は戸惑ったようにセラフィーナ様を見たあと、私を見て、そろそろと答えた。まるで、答案に不安のある生徒のようだった。
「体調が……あまり、良くなくて」
ちいさな声に、セラフィーナ様はあからさまに呆れたように肩を竦める。
「まったく、そんな調子で陛下の妃のお役目が果たせるのか、私には分かりませんわ」
「…………」
「皇国はなんて仰ってるの?」
マチルダ様は、セレニア皇国の皇女だったひとだ。私の母国モントヴァルトの海を挟んだ向こうの国である。
セラフィーナ様の言葉に、マチルダ様は俯きながら細い声で答えた。
「連絡は……しておりません……」
声が震えている。相当、セラフィーナ様が恐ろしいのだろう。
「呆れた。あなた、何のために嫁いできたの?」
「…………」
さらにマチルダ様はちいさくなる。セラフィーナ様が追撃のため口を開こうとしたところで、私は彼女に声をかけた。
「お話中失礼します。セラフィーナ様。少し、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「…………何かしら」
出鼻をくじかれたと思っているのだろう。セラフィーナ様が不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
だけどすぐに、パ、と作った薄い笑みをこちらに向ける。目は、全く笑っていないけれど。
私は彼女の視線を正面から受け止めながら、腰を上げる。
「私の椅子が、濡れているようなのですけれど、なにかご存知ありませんか?」
「っ……!!」
それに顕著な反応を見せたのは、マチルダ様だ。それに、確信を抱く。やはり、セラフィーナ様が仕掛けたのだろう。
セラフィーナ様が私より先に来たのには理由があったのだ。だいたい、私の到着時刻だって特別遅かったわけじゃないもの。現に、陛下は未だ姿を見せていない。セラフィーナ様と、そしてマチルダ様が特別早かったのだ。恐らく、意図的に。
席を立った私を見て、セラフィーナ様がにやりと笑う。
「さあ。わかりかねますわ。使用人が粗相をしたのかしら」
「この濡れ具合からして、濡れてからそんなに時間は経過していないようですわ。セラフィーナ様は、いつ食堂にいらっしゃったのですか?」
「まさか、私を疑っているの?」
「それこそまさか、ですわ。状況確認をしたいのです。だって、そうでしょう? こんなの──側妃として嫁いできたばかりの私への、牽制と嫌がらせ、としか取れませんもの。ちゃんと、犯人を見つけなければね」
「っ……」
牽制と嫌がらせ、とはっきり口にされたことでセラフィーナ様の顔に不満が現れた。恐らく、図星だったのだろう。
王女といえど、外国の人間がこの国で好き勝手することは許さない、という牽制なのだと思う。それを理解した上で、私はセラフィーナ様に笑いかけた。
「ひとまず、椅子を交換してもらいましょうか。ダリア、代わりの椅子を用意して」
声をかけると、すぐにダリアが動いて、控えていた侍従と協力して椅子を交換してくれる。
(まったく、どれくらい水をかけたんだか……)
そもそも本当に水なのだろうか。セラフィーナ様の性格的にワインとか、有り得そうだ。
椅子の座面は、水分をしっかり含んでいて、びしょ濡れだった。こんなこともあろうかとエラとダリアに言って、大判のケープを携帯してきて良かった。
帰りは、それを羽織ることにしよう。
椅子を交換してもらっている最中、セラフィーナ様は酷く不機嫌だった。
恐らく、私が黙ったままでいると思っていたのだろう。
きっと、マチルダ様のように。
(彼女にも似たようなことをしたのでしょうね。だけど、マチルダ様の性格上、彼女は言い出すことが出来なかった)
それで味をしめたセラフィーナ様が同じことを繰り返した、と、つまりそういうことなのだろう。
その後、陛下がやってきてセラフィーナ様が親しげに声をかける。それに、陛下は満更でもなさそうな反応だ。そういえば、このふたりは昨日も夜を共にしたと聞く。
晩餐室にワゴンが運ばれてきて、食事が配膳される。陛下の前に置かれた皿の数々を見て、ぎょっとした。
見るからに、油っこいものがたくさん並んでいる。栄養も偏っていた。
陛下の好みなのだろうけれど、これは少し……いえ、かなり、体に悪いのではないだろうか。
しかし、指摘すれば陛下の不興を買うのは目に見えている。陛下ご自身がいいのなら、それでいいだろう、と思うことにする。彼もいい大人だ。確か、今年で四十五歳を迎えられたはず。
食事が始まり、陛下はマチルダ様に声をかけた。
「マチルダ、久しぶりだな」
「……はい。国王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」
マチルダ様が、畏まって頭を深く下げる。陛下はそんな彼女を見てつまらなそうに目を細める。
「ふん。相変わらず陰気な女だ。そして、マリアといったか」
「はい」
「お前はお前で、蜘蛛のような女だな。セラフィーナの言うことをよく聞くように」
「……それはつまり、いずれセラフィーナ様がご正妃になられるということですの?」
私がにっこりと微笑むと、陛下は目を丸くした。想定外の言葉だったのが、彼は相当驚いたようだ。手から滑り落ちたワイングラスがテーブルにぶつかってガシャン、と音を立てる。
しばらくして、陛下が怒鳴るように言った。
「バカを言うな! まったく、見た目を裏切らぬ小狡さだな」
「ご無礼を。お許しください」
「…………ふんっ、興が削がれた」
そう言うと、陛下は食事の途中だと言うのに席を立った。慌てて、セラフィーナ様が「陛下!」
と呼ぶ。それから、彼女は悪魔のような形相で私を睨みつけてくる。余計なことをするな、と言いたいのだろう。今、陛下が居なくなったらボロクソ言われそうだ。
このタイミングで私も失礼しようと腰を上げた。
「ご不快にさせてしまい、申し訳ございません。私がこの場を辞します。陛下はどうぞ、寵妃のセラフィーナ様とお食事を。マチルダ様、参りましょう」
声をかけると、驚いたようにマチルダ様が私を見る。
寵妃、という言葉に陛下は苦々しげに顔を歪める。
(私との結婚式の夜に、セラフィーナ様の元に通ったのだから、寵妃で間違いないでしょうに)
何をそんなに不満そうにしているのだか。ちらりとセラフィーナ様を見ると、彼女は彼女で寵妃という言葉に複雑そうな顔をしていた。
それもそうだろう。彼女がなりたいのは寵妃ではなく、正妃だ。
私の視線を受けたエラがマチルダ様を促して、セラフィーナ様が呆気に取られているうちに、ふたりして食堂を出た。
パタン、と扉を閉じてから、私はマチルダ様に尋ねる。
「お腹、空いてませんか?」
「え……」
「突然連れ出してしまい申し訳ございません。お食事、ほとんど召し上がられていませんでしたわよね?」
「え、ええ……。緊張で、それどころでは、なくて……」
困惑したようにマチルダ様が答える。あのふたりから遠ざかったことで、少し緊張が解けたようだ。私は笑いかけると、彼女を誘った。
「では、ご一緒にいかがですか? もし、お嫌でなければ……ですけれど」
私の提案に、マチルダ様は目をパチクリと瞬かせた。それから、私の背後に控えるダリアとエラを見て、ゆっくりと頷いた。
「……ご迷惑でなければ」
☆
場所を移して、私とマチルダ様は夕飯を共にした。話を聞くと、やはりマチルダ様も同じ目にあっていたらしい。つまり、嫁いできた日の翌日の晩餐会で、椅子を濡らされるという嫌がらせを受けたのだと話した。
彼女は悲しげな顔をして、言葉を続けた。
「セラフィーナ様の権力はとても強いでしょう? この国の貴族のほとんどは、セラフィーナ様を支持している。……だから、居場所がなくって……」
予想通りだった。セラフィーナ様の実家は、シャッテンヴァルト公爵家。
セラフィーナ様も、そしてシャッテンヴァルト公爵家も、彼女を正妃にしたいと考えているはずだ。
エリセリュン王国の貴族たちも、公爵家の顔色を窺うのだから、マチルダ様は居心地が悪いに決まっている。
白身魚にナイフを入れ、マチルダ様は苦笑した。
「国から連れてきた侍女たちも最初は怒ってくれていたのですけれど、私がこんな調子ですから……。すっかり諦めてしまったのです」
「ひとには、向き不向きがありますから。苦手なことを無理にしようとしなくても、いいのではありませんか?」
私の言葉に、マチルダ様がパッと顔を上げる。
それから、困ったように、あるいは泣くのを我慢するような顔で笑った。
「マリア様はお強いですね……。私は、セラフィーナ様が怖くて、怖くて。出来れば、部屋から一歩も出たくないのです。夜会も、昼食会も、気が向かなくて……。次は、何をされるのかと思うと、怖くて……」
「……ご実家は、なんて?」
マチルダ様の実家は、セレニア皇国。皇帝陛下や、皇后陛下は、この状況を知っているのだろうか。
セレニア皇国も、モントヴァルト王国と同じような理由で、皇女を嫁がせたのだろうけれど。
私の言葉に、マチルダ様は顔をくもらせた。
「お母様とお父様には……お伝えしておりません」
「そうでしたか……」
「だって、何を言えばいいと言うのです? 嫁いだ先で馴染めず苦しんでいる、なんて……言えるはずがない……っ」
そこまで言うと、マチルダ様はナイフとフォークを置いて、手で顔を覆ってしまった。声は震えていて、肩も震えている。
「もう嫌……。セレニア皇国に帰りたい……あの庭で、リュートを弾きたい……」
彼女がリュートを好むとは知らなかった。
あの庭、というのがどこなのかは分からないけれど、彼女の憩いの場所があったのだろう。セレニア皇国には。
「マチルダ様……」
そのまま、しばらく彼女は鼻を啜っていたが、やがて深く息を吐いた。エラがハンカチを差し出すと、「ありがとう……」と細い声で答えて、受け取る。ハンカチを目元に押し当ててから、彼女はゆっくり話し出した。
「こんなこと、言っても仕方ないとは分かっているのです。でも……私は、この国で生きていく自信が無い……。味方が誰もいない、この国では……」
マチルダ様は、ふたたび涙を零し始めた。きっと、色々と限界だったのだろう。彼女が嫁いできたのは、私より三ヶ月前だと聞いている。この三ヶ月、ひとりで耐えてきたのだろう。
誰にも頼れず、たったひとり、異国で。息を潜めるようにして、この三ヶ月を過ごしてきた。
私はカラトリーを置いてから、マチルダ様を見た。
「おりますわ」
「……?」
顔を上げた彼女に、私は微笑みを浮かべて答えた。
「これからは、私がいるではありませんか」
私の言葉に、マチルダ様が目を見開く。相当びっくりしたようだ。その様子に私は苦笑して、言葉を続けた。
「ひとりではありません。今後は、私がおります。私たちは、敵ではありません。協力関係を敷きましょう」
「協力……」
ハンカチをぎゅっと握りしめて、マチルダ様が言う。
「でも、私……何も出来ないわ。セラフィーナ様に言い返すことなんて、とても……」
「それでよろしいのです。言ったではありませんか。ひとには、向き不向きがある、と」
何も、言い負かすことだけが勝ちと決まっているわけではない。私の言葉に、マチルダ様は未だに涙を目の縁に溜めながら、きょとんとした様子で私を見つめ返した。