その陰陽師、女性につき
食い逃げ
数日後。
いつものように午後の自習の時間、木に登って晴明くんと久我くんと取り留めもない話をしていた。
「話変わるけど、最近市で食い逃げが流行ってるらしいよ」
焼き栗を食べながら、今朝市のおばさんから聞いた話を口にする。指先で殻を割ると、ほくほくした実が顔を出した。
「俺も知ってる!何でも酒売りの店の被害が多いみたいだな」
隣の枝に腰掛けた久我くんが、身を乗り出すように言った。こういう噂話になると、途端に元気になるようだ。
「こんな狭い市で食い逃げしたって、すぐに捕まるだろうに……」
都の市は広いとはいえ人通りも多いし、店の者同士も顔見知りだ。逃げ回ればすぐに誰かに見つかるはずだ。
晴明くんは特に気にしていない様子で焼き栗を剥いた。白い指で器用に殻を割り、中の実をひとつ口に運ぶ。
「それが、大食いで突然いなくなるんだってさ!」
久我くんは人差し指を立てて、やや興奮気味に言った。
「突然?」
思わず聞き返す。
「そうそう。何でもな、酒を飲んで飯を食って、まだ食うのかってくらい食って、それで店の奴がちょっと目を離した隙に、もういないんだって」
「逃げたってこと?」
「それが、逃げるところを見た人がいないらしいんだよ」
久我くんは枝の上で足をぶらぶらさせながら言う。
「気付いたら席が空っぽ。代金も置いてない。店の裏口も閉まってる。まるで煙みたいに消えちまうんだって」
「ふうん……」
私は焼き栗を一つ口に入れながら、都の方を眺めた。風が枝を揺らし、葉がかさかさと音を立てる。
「役人に言えばいいのに」
「言ってるかもしれないけど、犯人がいないんじゃ捕まえようがないだろ?」
確かにそうだ。
食べたあと消えてしまう相手では、どうしようもない。
「妖の仕業か?でも食い逃げする妖なんかいたか?」
「餓鬼とかは?」
私は首を傾げた。
餓鬼といえば、お腹が減って仕方のない亡者だ。飢えに苦しみ、何でも食べたがるという話はよく聞く。
「餓鬼ならただ食べ続けて暴れるだけで、逃げないからね。違うと思うよ」
晴明くんはそっと否定した。
それはそれで、迷惑な妖のような気もするが.....。
久我くんは枝の上で足をぶらぶらさせながら、うーんと唸る。
「じゃあ何なんだろうな、その食い逃げ」
「ただの人とか?」
私は言った。
「でもなぁ、煙みたいに消えるって言ってたぞ?」
久我くんは枝をぎしりと鳴らしながら体を揺らした。
「店の裏口も閉まってるんだってさ。外に出た奴も見てない」
.......確かに妙ではある。
だが、噂というものは大抵大げさになるものだ。
誰かが「逃げた」と言えば、次の人は「消えた」と言う。
そのうち「煙になった」とか「空に飛んだ」とか言い出すに違いない。
「まあ、そのうち捕まるんじゃない?」
晴明くんが言うが、久我くんが呆れたように「捕まらねぇから噂になってんだ!」と、ツッコんだ。
その拍子に乾いた葉がぱらぱらと落ちていく。
「まあまあ」
晴明くんは苦笑する。
「そんな怒ることでもないだろう?」
「怒ってねえよ!」
そう言いながらも、久我くんはまだ納得していない顔だ。
「まぁでも、動物は人間や妖を喰らうと、妖になるからね」
晴明くんは意味深そうに呟いた。
「......よし、俺達でその犯人捕まえてやろうぜ!」
久我くんはぴょんっと地面に飛び降りて、私達を見上げてニッといたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「この格好じゃ相手に怪しまれるからね、着替えようか」
晴明くんはそう言って、枝から軽やかに地面へ降りた。
私も後に続いて飛び降りる。
狩衣を脱いで、京へ来るときに着ていた旅装に袖を通す。
紺色の麻の着物で、今着ているものよりずっと地味だ。
帯を締め直しながら外へ出ると、久我くんはすでに着替え終わっていた。袖をまくって腕を組み、やる気満々の顔をしている。
「早いね」
私が声をかけると、久我くんは胸を張った。
「こういうのは準備が大事だからな!」
……と言いながら、どう見てもただ張り切っているだけに見える。
そこへ、既に着替え終わっていたらしい晴明くんも風呂敷包みを抱えて歩いてきた。
彼も同じように旅装に着替えていた。淡い色の着物に、簡素な帯。普段よりずっと質素な姿だが、不思議と違和感はない。
袖口を整えながら、こちらを見る。
「これなら、目立つこともないね」
晴明くんは、袂から小さな式神と見慣れた紙束を取り出した。
「護符?」
「うん。もし本当に妖だったら退治しないといけないからね」
久我くんは「おお……」と感心した声を出した。
「俺、食うことしか考えてなかったわ.......」
「久我は相変わらずだね」
クスクスと晴明くんは袖口を口元に当てて笑う。
三人で都の市に向かうが、私と久我くんは興味を引くものが目に入ると、つい足を止めてしまう。
そしてハッと気づけば、数歩先で晴明くんが待っている。
それを繰り返すこと数度。
「気が済むまで見て良いんだよ」
晴明くんの許しが出たので、開き直って露店巡りをしているというわけだ。
露店には、色々なものが並んでいた。
干した魚、山で採れた木の実、色のついた布切れ、竹細工の籠。
「お、これ見ろ!」
久我くんが声を上げた。
振り向くと、木彫りの小さな獣が並んでいる露店の前に立っている。
「狐だってよ、これ」
手のひらほどの木彫りを持ち上げて、こちらへ見せた。
「かわいいね」
「子供のお守りに買っていく人が多いんだよ」
店のおじさんがそう言う。
久我くんはしばらく眺めていたが、結局戻した。
「あれ、買わないの?」
晴明くんが横から声を掛けると、久我くんは悔しそうに言った。
「置き場所もうないからなぁ.....」
「少しは片付けたら良いのに」
二人のそんなやり取りが聞こえつつも、私は目の前の物を眺めるのに忙しかった。
特に気になったのが、動物や花の形などの飾りが付いた組紐だった。
赤や浅葱、薄紫に染められた糸が細かく編まれていて、小さな鈴や木の飾りが付いている。揺らすと、かすかな音が鳴った。
「道満、それ好きな奴にあげるのか?」
「えっ!?」
いつの間にか後ろに来ていた久我くんが、私の肩越しに覗き込んでいる。
「だってそれ、女の飾り物だろ?お前は元服してると思うし、元結はしなくても良いんじゃないか?」
確かに久我くんの言うことは真っ当だ。髪を結ぶのは女性と元服前の男の子だけ。
私の年齢と同じくらいの男の子は元服をしているだろう。
しかし、私は女の子だ。元服なんかしていない。
だが、男装をしているので、バレたくなかったらここで買わないのが賢い判断だろう。
「欲しいのかい?」
背後から、晴明くんに声をかけられた。
「欲しいっていうか、珍しいなって思ったっていうか、でもやっぱり欲しいかもと思わなくもないっていうか........」
もう十四歳なんだから欲望くらい抑えられるぞ!と言いたかったのだが、最終的に欲しいが勝ってしまう。
私は実に欲に素直な人間なんだろうか.....。
「そういえば、妹さんのお土産は何が良いか言っていたよね?」
「え」
私は晴明くんの方を見た。
妹なんていないが、ここは話を合わせろということだろうか?
「ほら、この前言っていただろう?」
穏やかな声で続ける。
「妹さんに『都に行くなら、お土産を買ってきてほしい』って頼まれたって」
「.......あ、ああ」
私は慌てて頷いた。
久我くんが「へぇ」と声を上げた。
「道満に妹いたのか」
「う、うん。まあ……」
誤魔化すように曖昧に答える。
晴明くん、凄いね........。
さらりと話を作ってしまうのもそうだが、あの自然さはなかなか真似できない。
私は少しだけ迷ったが、結局買うことにした。
近くで見ると、糸の色が本当に綺麗だ。
赤と薄紫が細かく編み込まれていて、小さな木の花が飾りに付いている。
銭を渡すと、組紐は小さな紙に包まれて手渡された。
久我くんが手を叩いた。
「今度こそ酒屋だな」
「やっと本来の目的に戻ったね」
晴明くんが苦笑する。
私たちは露店の通りを抜け、酒売りの店が並ぶ方へ向かった。
夕方の市は、昼よりもさらに賑わっていた。
焼いた魚の煙、酒の匂い、人の声。
器の触れ合う音や笑い声が、あちこちから聞こえてくる。
「この辺だね」
晴明くんが足を止めた。
道の角に、小さな酒売りの店がある。
外には粗い机がいくつも並び、客が腰を下ろして酒や食事をしていた。
その時、「食い逃げだー!!」と誰かが叫んだ。
いつものように午後の自習の時間、木に登って晴明くんと久我くんと取り留めもない話をしていた。
「話変わるけど、最近市で食い逃げが流行ってるらしいよ」
焼き栗を食べながら、今朝市のおばさんから聞いた話を口にする。指先で殻を割ると、ほくほくした実が顔を出した。
「俺も知ってる!何でも酒売りの店の被害が多いみたいだな」
隣の枝に腰掛けた久我くんが、身を乗り出すように言った。こういう噂話になると、途端に元気になるようだ。
「こんな狭い市で食い逃げしたって、すぐに捕まるだろうに……」
都の市は広いとはいえ人通りも多いし、店の者同士も顔見知りだ。逃げ回ればすぐに誰かに見つかるはずだ。
晴明くんは特に気にしていない様子で焼き栗を剥いた。白い指で器用に殻を割り、中の実をひとつ口に運ぶ。
「それが、大食いで突然いなくなるんだってさ!」
久我くんは人差し指を立てて、やや興奮気味に言った。
「突然?」
思わず聞き返す。
「そうそう。何でもな、酒を飲んで飯を食って、まだ食うのかってくらい食って、それで店の奴がちょっと目を離した隙に、もういないんだって」
「逃げたってこと?」
「それが、逃げるところを見た人がいないらしいんだよ」
久我くんは枝の上で足をぶらぶらさせながら言う。
「気付いたら席が空っぽ。代金も置いてない。店の裏口も閉まってる。まるで煙みたいに消えちまうんだって」
「ふうん……」
私は焼き栗を一つ口に入れながら、都の方を眺めた。風が枝を揺らし、葉がかさかさと音を立てる。
「役人に言えばいいのに」
「言ってるかもしれないけど、犯人がいないんじゃ捕まえようがないだろ?」
確かにそうだ。
食べたあと消えてしまう相手では、どうしようもない。
「妖の仕業か?でも食い逃げする妖なんかいたか?」
「餓鬼とかは?」
私は首を傾げた。
餓鬼といえば、お腹が減って仕方のない亡者だ。飢えに苦しみ、何でも食べたがるという話はよく聞く。
「餓鬼ならただ食べ続けて暴れるだけで、逃げないからね。違うと思うよ」
晴明くんはそっと否定した。
それはそれで、迷惑な妖のような気もするが.....。
久我くんは枝の上で足をぶらぶらさせながら、うーんと唸る。
「じゃあ何なんだろうな、その食い逃げ」
「ただの人とか?」
私は言った。
「でもなぁ、煙みたいに消えるって言ってたぞ?」
久我くんは枝をぎしりと鳴らしながら体を揺らした。
「店の裏口も閉まってるんだってさ。外に出た奴も見てない」
.......確かに妙ではある。
だが、噂というものは大抵大げさになるものだ。
誰かが「逃げた」と言えば、次の人は「消えた」と言う。
そのうち「煙になった」とか「空に飛んだ」とか言い出すに違いない。
「まあ、そのうち捕まるんじゃない?」
晴明くんが言うが、久我くんが呆れたように「捕まらねぇから噂になってんだ!」と、ツッコんだ。
その拍子に乾いた葉がぱらぱらと落ちていく。
「まあまあ」
晴明くんは苦笑する。
「そんな怒ることでもないだろう?」
「怒ってねえよ!」
そう言いながらも、久我くんはまだ納得していない顔だ。
「まぁでも、動物は人間や妖を喰らうと、妖になるからね」
晴明くんは意味深そうに呟いた。
「......よし、俺達でその犯人捕まえてやろうぜ!」
久我くんはぴょんっと地面に飛び降りて、私達を見上げてニッといたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「この格好じゃ相手に怪しまれるからね、着替えようか」
晴明くんはそう言って、枝から軽やかに地面へ降りた。
私も後に続いて飛び降りる。
狩衣を脱いで、京へ来るときに着ていた旅装に袖を通す。
紺色の麻の着物で、今着ているものよりずっと地味だ。
帯を締め直しながら外へ出ると、久我くんはすでに着替え終わっていた。袖をまくって腕を組み、やる気満々の顔をしている。
「早いね」
私が声をかけると、久我くんは胸を張った。
「こういうのは準備が大事だからな!」
……と言いながら、どう見てもただ張り切っているだけに見える。
そこへ、既に着替え終わっていたらしい晴明くんも風呂敷包みを抱えて歩いてきた。
彼も同じように旅装に着替えていた。淡い色の着物に、簡素な帯。普段よりずっと質素な姿だが、不思議と違和感はない。
袖口を整えながら、こちらを見る。
「これなら、目立つこともないね」
晴明くんは、袂から小さな式神と見慣れた紙束を取り出した。
「護符?」
「うん。もし本当に妖だったら退治しないといけないからね」
久我くんは「おお……」と感心した声を出した。
「俺、食うことしか考えてなかったわ.......」
「久我は相変わらずだね」
クスクスと晴明くんは袖口を口元に当てて笑う。
三人で都の市に向かうが、私と久我くんは興味を引くものが目に入ると、つい足を止めてしまう。
そしてハッと気づけば、数歩先で晴明くんが待っている。
それを繰り返すこと数度。
「気が済むまで見て良いんだよ」
晴明くんの許しが出たので、開き直って露店巡りをしているというわけだ。
露店には、色々なものが並んでいた。
干した魚、山で採れた木の実、色のついた布切れ、竹細工の籠。
「お、これ見ろ!」
久我くんが声を上げた。
振り向くと、木彫りの小さな獣が並んでいる露店の前に立っている。
「狐だってよ、これ」
手のひらほどの木彫りを持ち上げて、こちらへ見せた。
「かわいいね」
「子供のお守りに買っていく人が多いんだよ」
店のおじさんがそう言う。
久我くんはしばらく眺めていたが、結局戻した。
「あれ、買わないの?」
晴明くんが横から声を掛けると、久我くんは悔しそうに言った。
「置き場所もうないからなぁ.....」
「少しは片付けたら良いのに」
二人のそんなやり取りが聞こえつつも、私は目の前の物を眺めるのに忙しかった。
特に気になったのが、動物や花の形などの飾りが付いた組紐だった。
赤や浅葱、薄紫に染められた糸が細かく編まれていて、小さな鈴や木の飾りが付いている。揺らすと、かすかな音が鳴った。
「道満、それ好きな奴にあげるのか?」
「えっ!?」
いつの間にか後ろに来ていた久我くんが、私の肩越しに覗き込んでいる。
「だってそれ、女の飾り物だろ?お前は元服してると思うし、元結はしなくても良いんじゃないか?」
確かに久我くんの言うことは真っ当だ。髪を結ぶのは女性と元服前の男の子だけ。
私の年齢と同じくらいの男の子は元服をしているだろう。
しかし、私は女の子だ。元服なんかしていない。
だが、男装をしているので、バレたくなかったらここで買わないのが賢い判断だろう。
「欲しいのかい?」
背後から、晴明くんに声をかけられた。
「欲しいっていうか、珍しいなって思ったっていうか、でもやっぱり欲しいかもと思わなくもないっていうか........」
もう十四歳なんだから欲望くらい抑えられるぞ!と言いたかったのだが、最終的に欲しいが勝ってしまう。
私は実に欲に素直な人間なんだろうか.....。
「そういえば、妹さんのお土産は何が良いか言っていたよね?」
「え」
私は晴明くんの方を見た。
妹なんていないが、ここは話を合わせろということだろうか?
「ほら、この前言っていただろう?」
穏やかな声で続ける。
「妹さんに『都に行くなら、お土産を買ってきてほしい』って頼まれたって」
「.......あ、ああ」
私は慌てて頷いた。
久我くんが「へぇ」と声を上げた。
「道満に妹いたのか」
「う、うん。まあ……」
誤魔化すように曖昧に答える。
晴明くん、凄いね........。
さらりと話を作ってしまうのもそうだが、あの自然さはなかなか真似できない。
私は少しだけ迷ったが、結局買うことにした。
近くで見ると、糸の色が本当に綺麗だ。
赤と薄紫が細かく編み込まれていて、小さな木の花が飾りに付いている。
銭を渡すと、組紐は小さな紙に包まれて手渡された。
久我くんが手を叩いた。
「今度こそ酒屋だな」
「やっと本来の目的に戻ったね」
晴明くんが苦笑する。
私たちは露店の通りを抜け、酒売りの店が並ぶ方へ向かった。
夕方の市は、昼よりもさらに賑わっていた。
焼いた魚の煙、酒の匂い、人の声。
器の触れ合う音や笑い声が、あちこちから聞こえてくる。
「この辺だね」
晴明くんが足を止めた。
道の角に、小さな酒売りの店がある。
外には粗い机がいくつも並び、客が腰を下ろして酒や食事をしていた。
その時、「食い逃げだー!!」と誰かが叫んだ。