営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「へえ。すごい偶然だね」
「ええ、まあ」
「会社の家賃補助が出るギリギリの沿線だからな」

 そう言いながら、穂積先輩はわたしにメニューを預けた。

「無理に飲む必要はないからな」
「いえ、今日は飲みたいので」
「わかった。酔っ払っても介抱はしないから、自己責任で」
「もちろんです」

 メニューをざっと見て注文を済ませる。
 会話は、そこで一度途切れた。

 ……さっきの名刺を、ここで渡すべきだろうか。
 今までは穂積先輩の背中が『何も聞くな』と言っていたので、一言も口にできなかったけれど、ここでなら話題に出せるかもしれない。

 榊さんから渡されたレモンチューハイを手に取りながら、タイミングを探す。
 けれど、どう切り出せばいいのかわからない。

 無関係な立場で踏み込んでいい話じゃない気がするし、かといって、何も気にしていないふりをするのも難しい。

「……さっきの導線」

 先に口を開いたのは穂積先輩だった。

「入り口で分散させるなら、視認性の高い配置にしろ。迷わせると離脱する」
「……はい」

 拍子抜けするくらい、完全に仕事の話だ。
 ……でも、穂積先輩らしいとも言える。
 
「あと、ブース間の距離が近すぎると滞留する。回遊率上げたいなら、詰めるな」
「……なるほど」

 すかさず手帳にメモをしながら、頭の中でさっきの現場を思い返す。
 さっきまで考えていたことを、無理やり意識の外へ追いやる。

 ……やっぱり、渡さない方がいいのかもしれない。
 そう思ったときだった。

「……気になるなら、聞けばいい」
「え?」

 顔を上げると、穂積先輩は焼酎の入ったグラスに口をつけたまま、こちらを見ずに言った。

「昼の話」
「えっと……あの人たち、知り合いなんですよね?」

 迷った末に口にできたのは、わかりきったことだった。

「ああ。前の会社の同期だ」
「……あんな大手にいたんですね」

 さっき聞いた社名を、そのまま口に出すのは躊躇われて曖昧な言い方になってしまった。

「やってる仕事は今と変わらねえけどな」

 それは少し突き放した言い方のようでもあったし、いつもと同じ穂積先輩にも見えた。

 なんで辞めたんですか? とか。あの二人は……音羽さんは、先輩にとってどんな人なんですか? とか。聞きたくないと言えば嘘になる。
 だけどそれはただの詮索で、わたしたちの間柄で聞けるような話ではない。

「……先輩はいつからうちにいるんですか?」
「一年前だな」
「思った以上に最近なんですね」
「まあな」

 十年選手みたいな働き方なのに、社歴だけならわたしの方が先輩だった。

 会話が少し途切れた隙に、バッグから名刺入れを取り出す。
 そこから一枚、慎重に取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
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