営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
 数の多さに慄きながら、PDFを一番目から順番に開くと、会場全体の図面に、色分けされた導線が引かれている。しかも、それだけではなく、その上に重ねられた注釈が多すぎる。

『ここ、午後は詰まる可能性高い(昨年実績)』
『午前は逆に流れる。スタッフ配置で調整』
『この通路、視界が抜けない。立ち止まり発生』

 短い一文ばかりなのに、妙に具体的で想像が引きずられた。
 文章から当日の空気まで浮かび上がってくる。

 次のファイルは、クライアントの情報。名前と役職に続いて、メモが並んでいた。
 誰に決裁権があるのか、去年の現場でのトラブルや実績まで、細かく綴られている。

 思わず画面を見つめたまま固まった。
 当日の目的。確認事項。想定されるトラブル。
 来場者の流れが詰まった場合の対処、スタッフ間の連携ミスが起きたときの優先順位。

 どれも簡潔なのに、穂積先輩の判断の軸だけははっきり伝わってくる。彼の思考がそのまま可視化されたみたいだ。
 改めてメール本文を読むと、最後に、短い一文がある。

『一通り目を通しておけ。不明点は事前に潰すように』

 突き放しているようで、でも、必要なことは全部渡されている。
 ……つまりここに書いてあることを理解できるようになれば、それは、穂積先輩の視点に近づけるってことだ。

 企画部にいた頃とは、見ているものが違う。動線も、滞留も、全部が信頼に直結している。
 送られた資料をすべて印刷して、蛍光ペンを片手に向き合った。


 金曜の午前七時。 
 ホームに滑り込んできた新幹線に乗り込んだ。全席指定の車内はほぼ満席で、空気がどこか淀んでいるように感じた。 
 
「窓際と通路側、どっちがいい?」
「では、通路側でもいいですか」

 穂積先輩は返事をせずに窓際に腰掛け、それに続き隣の席に座る。距離にして、肘一つ分もない。
 すごく普通のことなのに、なぜこんなにも緊張するんだろうか。

「資料、見てきたか」
「はい。頭に入っています」
「……どこまで?」
「えっと……」

 咄嗟に答えられず、まごついていると、間髪入れずに質問が飛んでくる。何度も整理した内容をなぞるように答えている、そのときだった。
 会話の途中で穂積先輩と目が合い、一瞬だけ、空気が止まる。
 たったそれだけのことで、今、自分が何を言おうとしたのか、忘れてしまった。
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