営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「どうかしたか?」
「……い、いえ。あの……質問してもいいですか?」

 動揺を誤魔化すように少し動くと、肩が触れそうになった。
 怪訝そうな穂積先輩から逃げるように、読み込みすぎて紙が擦れた資料を取り出す。何を聞こうか考えるのに、思考がうまくまとまらない。
 いつもと違う近すぎる距離に、ますます落ち着かない気分にさせられた。

「あの……大阪出張ってよくあるんですか?」

 もっとまともな質問をするつもりが、一番どうでもいい疑問が口からこぼれた。

「ああ。普通はないが、ここは俺が前の職場からクライアントごとひっぱってきた仕事だからな」
「こんな大企業をですか? すごいですね」
「会社の規模で言えば、そうだな」

 数日前の応和企画の男性が自然と思い浮かんだ。
 そういう経緯があるから、あの人はあのとき、穂積先輩にきつく当たっていたんだろうか。

「でも別に、でかいクライアントだから引き抜いたわけじゃないけどな」
「そうなんですか?」
「ああ、先方の統括部長が、この仕事をやるなら俺でって指名が入って、前の会社の担当にも話をつけてくれた。そこまでされたら、断れない」
「……そっちのがすごいですけど」
「そういう経緯があったとしても、やることは普段と変わらない。だからいつも通り、丁寧に対応して欲しい」
「わかりました」

 それ以上、会話は続かなかった。
 隣側の熱を意識したまま、視線だけを手元に落とす。
 先輩の横に座るのは、今日が初めてじゃない。初対面の夜だって、同じくらい近かった。
 なのになんで、今日はこんなに意識しているんだろうか。

 ふと隣を横目で見ると、穂積先輩は窓にもたれかかって目を閉じている。疲れているのかもしれない。そう思うものの、自分一人がバカみたいに緊張していることが、なんとなく悔しい。 

 ふと視線を落とすと、スーツの胸元に白い糸が引っ掛かっているのが見えた。こっそりとってもいいだろうか?
 そう思って、胸元にそっと手を伸ばした、そのとき。

「お前、何してんの?」
「……っ」

 穂積先輩が急に目を開けて、わたしの手首を掴んだ。そのせいで、想定よりも身体が前に傾き、ますますお互いの距離が近くなる。
 一連の動きがあまりにも予想外で、心臓がばくばくしてうまく声が出せない。
< 36 / 101 >

この作品をシェア

pagetop