営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「……あ、あの……い、糸が……」
「糸?」
「せ、先輩のスーツに糸が付いてたので……取ろうと思いまして……」
「ああ……」
「あの……手……離してくれませんか?」

 そう言うと、穂積先輩は意外な言葉を聞いたように驚いた顔をしたあとで、「悪い」と小さく呟き、ぱっと手を離した。まるで、わたしの手首を掴んだことを理解していないような、不思議そうな顔だった。

「いえ、こちらこそ……」

 さっきまで掴まれていた手首だけ、熱を持ったみたいに火照っていた。脈が全然落ち着かない。

 そこからはお互いに無言のまま、気まずい沈黙だけが場を支配する。
 わたしはなんでもない顔を装い、正面の電光掲示板に流れるニュースを、ただぼんやりと眺めた。

 ほどなくして、到着を告げるアナウンスが耳に入る。

「行くぞ」
「……はい」

 ……いけない。もっと集中しなくちゃ。
 仕事ができない人間だなんてレッテルを、この人にだけは貼られたくなかった。

 駅から電車を乗り継ぎ、目的地へ向かう。
 開場前の最終確認として、今からは実際の人の流れを見ながら、動線や運用の細部を詰めなくてはならない。

 会場は予想よりもずっと広かった。ざわめきと機材の低い駆動音が、空気に混ざっている。
 開けたエントランスを抜けた先には、設営途中のブースと、既に動き始めているスタッフの動線が交差していた。

「……想像より早いな、動き出し」

 穂積先輩が周囲を一瞥する。

「遅刻ではないですよね?」
「ああ、最終の打ち合わせは一時間後だ」

 周囲を見ながら、頭の中で動線を組み替えているように見える。
 
「まずメイン動線確認する。鮎川は、サブの流れ見ておけ」
「はい」

 言われた通り、脇の通路へ足を向ける。
 来場者の流れを想定しながら歩き、視界の抜けや詰まりそうな箇所をチェックする。

「ここ、少し狭いかも……」

 そう考えながら立ち止まりかけたところで、背後から声が飛んだ。

「すみません、そこ通してもらえますか?」

 振り返ると、機材を積んだスタッフが数人、通路を塞ぐように並んでいる。

「あ、はい。どうぞ」

 通路の脇に一歩避けた、その瞬間だった。
 正面から来ていた人の流れと、後ろから抜けようとしたスタッフの動線が、ちょうど交差する。行き場を失った人の流れがぶつかった。
 わずかな詰まりだけれど、現場ではそれだけで目立つ。
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