営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「俺が誰を信頼するかは自分で決める。他人にあれこれ言われることじゃない」
「……そうですか」

 浦沢さんは表情を歪めたまま、踵を返して穂積先輩に背を向けた。
 話が終わったのだとほっとしたとき、先輩が少し迷うように口を開いた。

「……あんたの企画の穴に、鮎川は最初から気づいてた。あいつの仕事は、悪くない」

 その言葉に、企画にいた頃のことを思い出した。
 あの当時、浦沢さんの言葉には、なぜかみんなが耳を貸した。
 作られたストーリーと被害者意識の強さが周囲を巻き込み、わたしの声はなかなか届かなかった。
 
 ……だけど、この人は、他の人とは違う。ちゃんと、自分の目で見たものを信じてくれる。
 それだけで、十分だった。

 なぜか視界が滲む。
 瞬きをした途端、頬に冷たいものが触れた。
 拭うことも忘れて、ただ、その場に立ち尽くす。

「それと、用件がそれだけなら、二度と俺に声を掛けないでくれ」

 穂積先輩の声は、最後まで揺れなかった。
 浦沢さんは一瞬だけ振り返る素振りを見せたけれど、結局そのまま出入り口に向かう。遠ざかる足音を聞きながら、ほっと息を吐いた。
 慌てて涙を拭い、三十秒待ってから穂積先輩の元へ向かう。その足が、少しだけ震えていた。

「遅い」
 
 わたしに気づいた穂積先輩が不機嫌そうな声を上げた。だけど、いまはその声すら、少しだけ優しく聞こえた。

「申し訳ありません。車の場所に少し迷って」
「いいから乗ってくれ。五分遅れてる」
「はい」

 助手席のドアを開け、シートに乗り込む。 
 シートベルトを締めようとしたけれど、焦っているせいか、ベルトがうまく引き出せない。その様子に、呆れた声で穂積先輩が「貸してみろ」と言った。

「──え?」

 助手席のシートに手を置いて、覆い被さるように穂積先輩が目の前に来る。自分の視界が、彼の胸元で埋まる。ほんのわずかにスモーキーな香りがした。
 強いわけじゃない。でも近づいた瞬間だけ、ふっと感じるくらいの。
 思わず息を呑んで、そのまま呼吸を止めた。心臓の音が耳の奥に響くほど、どくどくと脈を打つ。

 穂積先輩はベルトをぐっと掴み、「ほら、これでいいだろ」と何事もなかったように運転席に戻る。

「は、はい……。ありがとうございます……」

 可能な限り平静を装おうとするのに、うまくいかなかった。顔の熱がなかなか引かない。このままじゃ、きっと気づかれる。

 車が発進し、静かにスロープを上っていく。
 地上に出ると、午後の光が目を眩ませる。

 不自然にならないように首を傾け、窓の外をじっと眺めた。
 いつか誰かが言っていた言葉が、なぜか急に蘇る。

 ──穂積先輩は、社内恋愛は絶対しない。

 なんで胸が痛くなるのか、その理由を必死に気づかないふりをした。
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