営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「……おいっ」

 背後から突然肩を掴まれ、びくりと足が止まる。

「赤信号だぞ! 寝てるのか?」

 その声に振り返ると、穂積先輩が少し息を切らし、そこに立っていた。
 なんでここに……という疑問と掛けられた言葉に、信号と先輩を交互に見て状況を理解する。

「え……あ……ごめんなさい……ぼんやりしてて……」
「お前、泣いてるのか?」
「え……?」

 言われて頬を触ると、確かにそこは濡れていた。慌ててハンカチを出して、目元を押さえる。もしかしたらマスカラが落ちてパンダ目になっているかもしれないと思うと、恥ずかしくてまっすぐ顔を上げられなかった。

「どうした? なにか今日店舗で問題でもあったのか?」
「いえ……なにも……」
「帰り際も様子がおかしかったけど、蝦名と揉めたのか?」
「まさかっ。すごくいい先輩だと思います……あの……これは、ちょっとコンタクトにゴミが入っただけなんです」
「……両目にか?」
「風が強かったので……」

 わたしの言葉に、穂積先輩は訝しげな眼差しのまま、「ならいい」と言った。

「あの、何か急ぎの件ですか? ……追いかけてきてくださったんですよね?」
 
 蝦名さんといい雰囲気だったし、あのまま飲みにでも行くんじゃないかと、少しだけ思った。だから、なんでここにいるのかと考えると、仕事の話じゃないかと思ったのだ。

「……さっき」

 その一言に、ハンカチで目元を押さえたまま、顔を上げる。
 言い訳を探すみたいに、穂積先輩は一度だけ視線を外した。

「帰り際に様子がおかしかったから」
「え……」

 予想していなかった言葉に、息が詰まる。

「何かあるなら、早めに聞いておきたかった。……でも、問題ないならそれでいい」

 それだけ言うと、穂積先輩はわたしから視線をそらした。
 何か言わなきゃいけない気がするのに、うまく言葉が出てこない。
 
 信号が変わり、先輩が駅の方向へ歩き出す。
 一瞬迷ってから、その背中を追いかけるように少し後ろを歩いた。

 きっちりと体に沿ったスーツが、その背中の輪郭を際立たせていた。
 振り返ることなく歩いていく後ろ姿を見つめながら、胸の奥に残った感情が、うまく消えてくれない。

 さっきまで感じていた悔しさとも、少し違う。
 なのに、その正体がわからなかった。

 考えようとするほど、思考が空回りする。
 言葉にならないまま広がっていく感情に揺さぶられながら、今はこの距離から置いていかれないようにするだけで、精一杯だった。
< 59 / 101 >

この作品をシェア

pagetop