営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「……成長したな」
「え?」
「今のは、悪くなかった」

 短くそう言った。
 それだけで、呼吸の仕方を忘れたみたいに息が止まる。

 ……おかしい。今までだって何度か褒められたことはあるのに、勝手に顔が赤くなる。
 
「……ありがとうございます」
「ん。……ついでに他の店舗も見て回るか?」
「あ、はい。行きます!」

 いくつか駅付近のビルを見て回り、参考になるものは手帳にメモを残す。気づけばすっかり定時を過ぎていた。

「俺は直帰するけど、鮎川はどうしたい?」
「あの……わたしも直帰します」
「会社に連絡するか」

 先輩はスマホを取り出し、会社へ二人分の直帰を伝える。ただの業務報告なのに、社内に変な誤解をされないか、少しだけそわそわした気持ちになった。

「じゃあ、帰るか」
「はい」

 先輩とわたしの最寄り駅は一駅違うだけで、沿線は同じだ。
 迷いのない足取りで商業施設の出口に向かうのを見て、帰り道まで一緒にいられることが、ほんの少しくすぐったかった。

 ……紬に行きませんか?
 そんなふうに誘ったら、おかしいかな。だけど、断られるかもしれないと怖じ気づく自分もいる。

 結局何も言えないまま外へ出ると、そこは、バケツの水をひっくり返したような豪雨だった。

「……大雨ですね」
「ああ」
「折り畳み傘、壊れそう……」
「地下通路経由で駅まで行くか」

 けれど、改札を抜けた頃には、雨は更に激しさを増していた。
 ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、冷房の効いているはずの車内はどこか蒸し暑く、窓の外が白く煙るほどの土砂降りになっている。
 電車はかなり混み合っていて、身を寄せる場所が心許ない。

「鮎川」

 そう呼ばれて顔を上げると、先輩が出入り口付近のスペースにわたしを誘導した。ドア脇のポールに捕まり、やっと息がつける。

「……ありがとうございます」

 顔を上げて、その距離の近さに少し怯みそうになった。満員電車だから仕方がないとは言え、真正面に立たれると急にいろんなことが気になり始める。

 ……メイク、崩れてないかな。湿気で髪もぺたんとしている気がするし、汗の匂いだって気になる。
 急に自分だけがみっともなく思えて、ポールを握る手に汗が滲む。
 だけど、少しだけ視線を上げると、先輩はわたしじゃなくて窓の向こうをじっと見ていた。この角度だと、首元のラインがはっきりと見えて、いつもは意識して見ていなかった横顔のきれいさに気がつく。
 シャツ越しでも分かる肩の厚みが、電車の揺れに合わせてわずかに動く。
 近すぎて、全然落ち着かない距離。
 だけど、そんな気持ちがバレるのだけは避けたくて、そっと視線をずらし、細く長い息を吐いた。
< 65 / 101 >

この作品をシェア

pagetop