営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
 雨が少し弱ったタイミングを狙って駅を離れたけれど、歩いている間にいきなり雨脚が強くなる。
 傘を差してもあまり意味はなく、二人分の足音が雨水を踏むたびに、ヒールの内側が重たくなっていく。

 先輩が住むマンションは駅からそれほど遠くなかった。駅近くの新しい建物で、夜のエントランスは妙に静かだ。
 着いた頃には二人とも全身すっかり濡れていて、歩くたびに足跡がくっきりと残る。
 
 無言のままエレベーターで八階に上がり、部屋に入ると、すぐに大きなタオルを差し出された。

「これ使え」
「ありがとうございます」

 濡れた髪を拭きながら、落ち着かない気分で立ち尽くす。足元もびしょびしょなので、このままじゃ玄関に上がることも躊躇ってしまう。

「……そのままじゃ帰れないよな。俺の服で悪いけど、嫌じゃなければ着替えるか?」

 そんなに甘えていいのか、一瞬悩んだけれど、この状態ではわたしが動くたびに部屋を濡らしてしまう。

「ごめんなさい……お願いします」
「床、汚れても構わないから上がってくれ」
「はい。お邪魔します」

 先輩は迷いのない動作で、玄関の横にあるバスルームにわたしを誘導した。
 白を基調にしたシンプルな作りで、細かい隙間もきちんと掃除がされているのがいかにも先輩らしかった。
 無駄なものは置かれていない。木目調のラックには必要最低限の洗剤と、きちんと揃えられたタオルだけが目に入る。
 生活感がないわけじゃないのに、どこか隙がなくて、髪の毛一本でも落とせない気持ちになる。

 タオルで少しでも水気を吸収しようと念入りに拭っていると、扉の外から声を掛けられた。

「鮎川、開けていいか?」
「あ、はい。もちろんです」
「はい、着替え」

 手渡されたのは、丁寧に畳まれた男性用のTシャツとスウェット。
 先輩は、既にスーツを脱ぎ、部屋着に着替えている。無地のTシャツに、細身のルームパンツ。ラフな格好のはずなのに、スタイルが良いせいかオシャレに見える。
 それどころか、見慣れない姿のせいか、目のやり場に困る。
 この状況の非日常さに、現実感が遠のいていく気さえした。
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