営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「冷えてるなら風呂わかすけど」
「いえっ! だ、大丈夫です!」

 一瞬、横目でバスルームの扉を見た。お風呂を借りるなんて、想像しただけで顔が赤くなる。
 
「タオルは足りなければ、ここにあるのを自由に使え。あと、濡れたものは乾燥機をかけるから、ハンガーに吊るして置いといて」
「え、あ、はい」

 次々と出される指示に戸惑いながら頷くと、先輩はわたしの全身を一瞬だけ見て、「服、サイズがでかすぎるかな」とぼそっと言った。

「いえ、貸していただけるだけで十分なので!」
「なら、いい。お前、腹減ってるよな? 適当になんか出しても平気?」
「でも、そこまでしてもらうのは……」
「俺が腹減ったから。一人で食うのは気が引けるだろ」
「あ……ですよね」

 腕時計をちらっと見ると、時刻は既に八時近い。指摘されて初めて、自分もお腹が空いていることに気がついた。

「苦手なものやアレルギーは?」
「ないです……」
「ん。じゃあ、ドライヤーとか好きなように使って」
「はい。ありがとうございます……」

 やっぱり何か都合の良い夢を見ている気がする……。そう思いながら、ジャケットとサマーニットを脱いだ。中のキャミソールや下着も少しだけ湿っているけど、気になるほどじゃない。
 ドライヤーで温風を当てて少し乾かし、渡されたTシャツに着替える。
 スウェットは特にサイズが大きくてダボダボだ。袖を少し折り返しながら、まとめていた髪の毛をほどいた。
 汗に強いファンデーションを使っているせいか、メイクはそこまで崩れていない。眉尻を足し、軽くグロスを塗り直して、パウダーで整えれば問題ないはず。
 ドライヤーで濡れた髪を乾かしている途中、ふと、風の中にスモーキーな香りが混じった。

 ──あれ、この香り……そう考えた瞬間、いつかの営業車の中で、穂積先輩と至近距離で近づいた、あの地下駐車場でのひとときが脳裏に蘇る。

「う、わあ……」

 ドライヤーを止めて、思わずその場にうずくまった。
 何もかもが自分のキャパを超えて、感情の処理が追いつかない。
 心臓のあたりが落ち着かなく騒ぎだし、居心地の悪い感情にどうしていいかわからない。

 ……男の人の家なんて、初めてじゃない。
 なのに、穂積先輩相手だと、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。

「駄目だ……ちゃんとしなくちゃ」

 わたしはただの後輩。それにそう遠からず、先輩はきっと昇進するだろうし、いずれ上司と部下になる。
 おかしな感情に飲み込まれて、関係性を台無しにしたくなかった。

 立ち上がり、鏡の中の自分を見つめる。
 髪や顔におかしなところがないか確認を繰り返す。最後に深く息を吐き出し、緊張する気持ちをぐっと抑えて扉を開けた。
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