営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「えっと……じゃあせめて、ここの洗い物、やります」
 
 穂積先輩は目元を細め「ばーか」と笑った。

 そのあと、洗い物をしたいわたしとさせたくない先輩の間で二巡ほどやりとりを重ね、なんとか権利をもぎ取る。
 
「基本は食洗機だから、水で汚れを落として、この中に収納してくれればいい」
「はい」

 ところが、うどんを茹でた鍋が思いのほか重くて、答えた直後、手首に重心が掛かり、水で滑る。

「あっ……」

 鍋が床に落ちる音に、穂積先輩がこちらを振り返る。

「怪我は?」
「ご、ごめんなさい! 手が滑って」
「いや、いいって。お前、案外抜けてるとこあるよな」
「すみません……。床、傷ついてないかな」
「大丈夫だろ。気にするな」
「でも……」
 
 鍋を拾おうとしゃがんだところで、ぎくりとする。

「…………っ」

 目の前に、先輩の顔があった。
 同じように座り込んだ体勢で、視線がぶつかり合う。
 それは、今までで一番の距離の近さ。
 呼吸が触れそうなほどに。

 先輩も固まったまま動かず、ただ見つめ合うだけの数秒間が、ゆっくりと過ぎていく。

「鮎川は……」

 先輩が、何か言いかけたそのとき、スマートフォンの着信音が鳴った。 
 「……悪い」といって、先輩が立ち上がり、カウンターの充電器に置かれたスマホを取り上げる。
 わたしは心臓が早鐘を打つのを止められないまま、何の返事もできなかった。
 そのまま、先輩はスマホを手に寝室に向かって消えていく。

 しばらく呆然としてから、はっと気がつき、鍋を拾った。手早く片付けて食洗機にすべての食器を収納する。
 だけど頭の中は、さっき至近距離で見た穂積先輩のことで一杯だった。
 四ヶ月以上毎日眺めてきたのに、知らなかった。瞳の色が焦げ茶っぽいことも。少し薄めの唇の形も。
 知っているようで、全然知らない男の人の顔に、思わず手を伸ばしたくなる衝動を覚えた。そんな自分が恥ずかしい。

 手を拭きながら、窓の外を見ると、雨はまだ強いままだった。
 早く止んでほしいと思うのに、同時に、もう少しここにいたいとも思う。
 落ち着かない気持ちを持て余したまま、ぼんやりと立ち尽くした。
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