営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
扉が閉まると、家主が不在の部屋が一気に広く感じる。
さっきまで漂っていたカレーの匂いも、どこか遠くなった気がした。
ソファに座ったまま、なんとなく本棚へ目を向けた。
営業資料。マーケティング関連の専門書。経営戦略。海外の広告事例集。
並んでいる本に、無駄がない。一冊くらい小説か何かがあってもいいと思うのに、仕事関係ばかりだ。
……本当に、穂積先輩らしい。
ぼんやりそんなことを考えながら、一冊だけ抜き取る。けれど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。
『……恋人はいない』
『仮にそんな相手がいるなら、さすがにお前をここに連れてこない』
さっき交わした会話が、頭の中で何度も繰り返される。
そう言われた瞬間に、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚が同時に蘇る。
『……お前は……? 彼氏』
そのときの穂積先輩の、今まで見たことがない表情が、全然忘れられなかった。
「……意味わかんない」
小さく呟いて、額を押さえた。
なんでそんなことを聞くんですか? ……そう聞けばよかったのに、口にはできなかった。
だって、どう返されるのか予想もつかなかったから。
「いつ帰ってくるんだろう……」
窓の外を眺めて、小声で呟く。頭の中で、穂積先輩と音羽さんが向かい合ってる姿が勝手に像を結ぶ。だけど二人がどんな会話をしているのかは、イメージにさえ降りてこない。
もやもやとしたまま十五分ほど過ぎた頃、部屋へ戻ってきた。
「悪い。待たせた」
その顔は、何事もなかったみたいに淡々としていた。
喉奥に、『何があったんですか?』という言葉が出かかって、なんとか飲み下した。
「いえ……たいして待ってないですよ」
「いま、タクシー呼ぶから」
「ありがとうございます……」
先輩から感じる、何も話す気はないという空気に触れて、とても踏み込む気にはなれなかった。
配車アプリで呼んでもらったタクシーに乗り込み、マンションを離れた。
あんなにも強かった雨はもうすっかり止んでいて、だけど心は晴れないままだった。