営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
 各社の担当者たちが順番に席を立ち、会議室を後にしていく。
 わたしも資料を抱えて立ち上がった、そのときだった。

「鮎川さん」

 不意に後ろから声を掛けられ、振り返った瞬間、思わず息を呑んだ。
 柔らかなベージュのセットアップに身を包んだ音羽さんが、涼やかに微笑んでいる。

「……お久しぶりです」

 いつわたしの名前を知ったのだろうか。まるで旧知の仲であるかのように、親しげに微笑みかけられる。
 こちらを値踏みしている感じはしないのに、なぜか圧をかけられているようで、言葉が続かなかった。

「少しだけいいかしら」
「……はい」

 断る理由も見つからず、その場で足を止める。
 安藤さんがこちらを気にしたように視線を寄越したけれど、音羽さんの顔を見た瞬間、何か察したようだ。

「俺、次があるから先に帰るな」

 そうわたしに小声で告げると、エレベータへ向かっていった。

 会議室前の廊下は、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。
 音羽さんはゆっくりこちらへ歩み寄ると、わたしを観察するみたいに目を細める。

「穂積くんと一緒に動いてるのよね。今回の案件」
「……そうです」
「どう? ……彼と働くのって、大変でしょう?」
「皆さんそう言いますが、わたしには勉強になることが多いので、楽しいです」
「……ああ、そういう答え方をするのね」

 なぜか少しだけおかしそうに笑われ、言葉に詰まった。
 音羽さんは数秒こちらを見つめたあと、何かを思案するように眉を寄せてから、もう一度、わたしを見た。

「鮎川さんには知っていてほしいんだけど、わたし、穂積くんをうちの会社に戻すつもりなの」
「……え?」

 唐突すぎて、思考が止まる。
 先輩がいなくなる光景を、反射みたいに想像した。喉元まで「やめてください」という言葉が出かかる。それをかろうじて飲み込んだのは、そんな言葉を言う資格がわたしにはないとわかっているからだ。
 
 少し間を置いてから、乾いた声で尋ねた。

「それは……応和企画にってことですか?」
「ええ、そうよ。応和は、わたしの祖父が創業した会社なの」

 創業家一族──つまりこの人は、ただの広報責任者なんかじゃない。
 応和企画の意思としてここに立っているのだと気がつき、思わず唾を飲み込んだ。
 ただの一社員の戯れ言ではなく、大企業が本気で穂積先輩を欲しがっている。
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