女嫌いな心臓外科医の契約妻になりました
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一週間後。
匠との待ち合わせの会場であるホテルを見上げ、雪音は深呼吸をした。今日ここで、匠は院長との食事を予定しており、そこには急遽娘も同席することになったらしい。院長との食事の機会はこれまで何度もあったが、娘が来るのは初めてらしい。一年ほど前からアプローチが始まり、何度も断っている為、今回は娘が院長に頼みこんだのだろうと匠はぼやいていた。
恋人のふりをして、院長に会って欲しいと頼まれただけでもキャパオーバーなのに、娘まで来ると聞いたのはここへ来る途中だった。
約束の時間は十二時だが、緊張しすぎて三十分も早く着いてしまった。
場所は三十七階の展望レストランなので、ロビーのトイレで身だしなみを再チェックした。
「早いな」近くまで来ていると連絡をすると、匠もすぐに合流した。ニットにテーラードジャケットを羽織り落ち着いたスタイリングだ。
「深沢先生も早いですね」
「他の用事済ませてから来たら微妙な時間になって。時間潰してた」
匠は雪音を見下ろし感心する。
「リクエスト通り清楚なでいいな」
ベージュのワンピースのに髪は軽く巻いてハーフアップにした。装飾品はネックレスだけで、化粧も仕事の時とほぼ変わらない。
「深沢先生のご希望に叶ってますか?」
「院長の娘って派手なんだよな。全然タイプじゃないって視覚でも伝わればと思って。正反対な感じは完璧だ」
確かに、勤務中に遊びのついでに寄った彼女を何度か見かけたことがあるがブランドものに身を包み、ゴージャスな雰囲気だった。
一時期、彼女は同じ医療事務として勤務していた。
一年も経たずに辞めてしまったが、その時はあまりいい噂を耳にしたことがなかった。権力か財力のある男性を好むらしく、そんな男性ばかりにアプローチをしていたと聞く。昨年の夏あたりに製薬会社の御曹司と別れたと聞いていたが、ここ最近は匠がターゲットになっているともっぱらの噂だ。
担当部署が違ったのでプライベートで話したことはないが、少し会話をした感じでは口調が強く、おどおどとしがちな雪音では全く気が合わなかった。
もともと口が回る方ではなく、咄嗟に言い繕えるほど頭の回転も良くない。縁談の邪魔など、自分にできるはずがない。
「深沢先生、やっぱりわたしには無理だと思います。うまく話せる自信がありません。別の方法でお礼させていただけませんか」
直前に申し訳なく思いつつも泣きごとを溢す。
「匠」
「え?」
「付き合ってる設定なのに、深沢先生はないだろ。名前で呼ぶように」
「ええっ」
全然違う回答が返ってきてまたパニックになった。
「練習。ほら、呼んでみて」
「む、無理ですってば!」
名前呼びなんてとんでもない。
「時間がないんだ。ドタキャンしたら良原先生にバラすぞ」
「う……」
今更ジタバタするなと視線で制され言葉に詰まる。
「った……匠……さん?」
たかだか名前を呼ぶだけなのに変に意識してしまい、息が詰まり顔が熱くなる。
深呼吸で呼吸を整えていると、匠はクッと喉で笑った。
「俺がリードするから、そんなに話さなくていい。口下手なほうが奥ゆかしさも演出できるしな」