止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―

エピローグ

 柱時計が修理されてから、一年以上が過ぎた。
 祖父の家には、今も柱時計がある。

 二月の朝、ミオは目が覚めた。
 声はしなかった。
 しばらく前から、そうなっていた。朝の時間が来なくなった。昼の時間も、夜の時間も。ある日を境に、声は、しばらく聞こえなくなっていた。
 でも、時間は消えたわけじゃない。
 最後に話したのは、いつだっただろう。
 秋の終わり頃だったと思う。夜の時間が「そろそろかもしれない」と言っていた。
「時間の声が聞こえる人は、ずっと聞こえるわけじゃない。その人にとって必要な時間が終わると、声は遠くなる」
「わたしはもう、必要な時間が終わったってこと?」
「そういうことだよ。悪いことじゃない。ちゃんと次に進んでるってことだから」
「寂しい」
「うん。でも、聞こえなくなっても、時間はそこにある。ただ、声にならないだけで」
 それが最後だったかどうか、ミオには分からない。気づいたら聞こえなくなっていた。終わりの挨拶はなかった。
 でも、それでいい気がした。ミオは、もう寂しくなかった。

 制服に着替えて、階段を下りた。
 台所でお母さんが朝ごはんを作っていた。味噌汁のにおいがした。
「おはよう」
「おはよう。今日寒いよ、ちゃんと着込んで」
 いつもの朝だった。
 
 学校に向かう途中、商店街を通った。
 八百屋のおじさんが店先に野菜を並べていた。目が合うと、「おう」と言って手を上げた。ミオも手を上げた。
 魚屋のおばさんが「寒いねぇ」と言った。
「寒いですね」と答えた。
 文房具店の前を通ると、おじいさんがガラスを拭いていた。ミオに気づいて「学校か、頑張れよ」と言った。
 一年以上前、思い出を集めに来たとき、初めて話した人たちだ。今は、通り過ぎるたびに言葉を交わす。
 時間が流れて、それが残った。

 中学校の門のところで、トキが待っていた。
「ミオ、遅い」
「早すぎるんだよ、あなたが」
「時計職人は時間に正確じゃないといけない」
「もう職人みたいなこと言うね」
 トキは少し笑った。笑うと少し子どもみたいな顔になる。
 二人で並んで歩いた。
「春から、父さんの工房で週一回教えてもらうことになった」
「本格的だね」
「時間がかかるのは分かってる。でも早く始めたい」
「好きだから?」
「好きだから」
 迷いのない答えだった。ミオはそれが好きだった。
「柱時計、今も調子いいよ。先週父さんが点検して、問題ないって」
「よかった」
「あの時計、僕が一人で整備できるようになるまで、まだ時間かかると思うけど。でもいつかはそうなりたい」
「なれるよ」
「どうして言い切れるの」
「一年前も同じこと言ったじゃない。好きな気持ちが腕に出るって」
 トキはまた黙った。少し照れているのが分かった。

 昼休み、河村さんと屋上近くの廊下で話した。
 河村さんは最近、生徒会の活動を始めた。人に声をかけるのが苦手だったはずなのに、今では委員会の連絡を自分で回している。
「変わったね」
「変わった?」
「前は人に話しかけるの怖いって言ってたじゃない」
「今でも怖い。でも、怖くても話しかけてる人を見てたら、やってみようかって思って」
「誰を見て?」
河村さんはミオを見た。
「ミオちゃんを見て」
 ミオは少し驚いた。
「わたし、そんなに上手くないよ。今でも迷うし、うまくいかないことも多いし」
「それでも声かけてたじゃない。迷いながら、やってたじゃない。それでいいんだって思った」
 ミオは窓の外を見た。
 二月の空は青くて、遠くまで澄んでいた。
 誰かの時間が、誰かに渡っていく。そういうことが、静かに起きていた。

 帰り道、ミオは祖父の家の前に立った。
 今は誰も住んでいないが、荒れてはいない。お母さんが時々来て、掃除をしている。庭の金木犀は、去年の秋もちゃんと咲いた。
 玄関の前に、また花が供えてあった。
 白い小菊だった。誰かが今日も来た。
 ミオはその花を見た。
 一年間、誰かがここに来て花を供え続けた。知らない人が、今も続けている。あの時計の音を覚えている人が、まだいる。
 ミオは玄関に鍵を差した。
 中に入ると、奥の部屋まで行かなくても、かすかに音が聞こえた。
 カチ、カチ、カチ。
 柱時計は今日も動いている。蒼井さんが修理してから、一度も止まっていない。
 
 ミオは縁側に座った。
 庭が見えた。冬の庭は枯れているけれど、金木犀の木はそこにある。春になれば芽が出て、秋になればまた咲く。
 祖父と並んで座った縁側だった。
 何も話さなかった夏の夕方だった。
 今は一人だけれど、それでもここにいると、何かが近い感じがした。
 声は聞こえない。
 でも、聞こえなくなっても、時間はそこにある。夜の時間がそう言っていた。
 ミオは空を見た。
 冬の青い空に、白い雲が一つ流れていた。
 おはよう、と思った。声には出さなかったが、思った。
 朝でもないのに、おはよう、と。

 風が吹いた。
 縁側を、冷たい風が通り過ぎて庭の枯れ草が揺れた。金木犀の枝も揺れた。
 その風の中に、かすかに何かがあった気がした。
 声ではない。でも、声に似た何かが。
 おはよう。
 ミオは少し、笑った。
 聞こえた気がしただけかもしれない。それで十分だった。

 柱時計が鳴った。
 
 ゴーン。


 低くて、少し丸い音が、部屋の空気をゆっくり揺らした。
 金色の振り子が、左右に静かに揺れている。
 止まっていた時計は、もう止まっていない。
 蒼井時計店で修理してもらってから、柱時計は毎日同じ音で時を刻んでいた。

 右へ。
 左へ。

 ミオは、しばらく振り子を見ていた。
 振り子の動きは、とても静かで、でも確かだった。


 窓の外では、冬の光が庭に落ちている。
 金木犀の木は、もう葉だけになっていた。
「いい音だね」
 久しぶりに声がした。

 夜の時間だった。
「うん」
 ミオは小さくうなずいた。
「長く眠っていたからね。時計も嬉しいんだと思う」
 柱時計が、また鳴った。

 ゴーン。

 その音を聞きながら、ミオはふと思った。

 最初にこの時計の声を聞いた日。
 振り子は止まっていて、部屋は静かで、何も動いていないみたいだった。

 あのときの自分は、まだ時間のことを何も知らなかった。
「ミオちゃん!」

 元気な声がした。
 朝の時間だった。
「今日も晴れだよ! 空、すごくきれい!」
「うるさい」
「うるさくない!」

 その後ろで、昼の時間がのんびり言った。
「まあまあ。朝はいつも元気だからね〜」
「昼は眠そうすぎる」
「眠いのは仕様だから〜」

 三つの声が重なって、少し賑やかになった。
 ミオは思わず笑った。

 前と同じだ。
 何も変わっていないみたいだった。

 でも、本当は少しだけ違う。
 ミオは柱時計の木に、そっと手を当てた。
 ひんやりした木の感触が、手のひらに伝わる。

 この時計を作った人。
 直してきた人。
 守ってきた人。

 その中には、祖父もいる。
 祖父はよく、この時計を見ながら言っていた。
 ——また時間が動いたな。
 その意味が、今は少しわかる。
 時間は止まらない。
 でも、止まっていた時間だって、また動き出す。
 ミオは振り子を見ながら、小さく言った。
「……また時間が動いたね」
 夜の時間が、やさしく言った。

「うん」

 そのとき、ふっと、もう一つの気配がした。
 遠くで、誰かが静かに笑ったような気がした。
 止まった時間だった。
 でも、声はしなかった。
 ただ、少しだけ離れた場所で、静かに見ているような気配だった。
 ミオはそれを感じながら、振り子を見ていた。

 右へ。

 左へ。

 時計は、正直に動いている。
 トキが言っていた言葉を思い出した。
 時計は嘘をつかない。
 窓の外で、冬の風が木の葉を揺らした。
 カチ、カチ、カチ。
 柱時計は今日も時を刻んでいた。
 ミオは、その音を静かに聞いていた。
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