絡まる残り香―滴る甘い蜜―

【第一話】: 快速電車の鉄鎖 6

勤務時間が終わると、ひとみは逃げるように病院を後にした。

​御茶ノ水駅のホーム。

幕張へ帰るなら、このまま総武線に乗ればいい。

快速に乗り換え、何事もなかったかのように「妻」の顔に戻れば、明日の朝にはまた平凡な日常が待っているはずだ。

​(帰らなきゃ……帰るべきなのに)

​けれど、駅の階段を下りるひとみの足取りは、呪縛にかかったように重い。

脳裏に焼き付いているのは、朝の車内で耳元に突きつけられた、あの濁った声。

「来なかったら、バラしてやる」

それは明白な脅迫だった。だが、今のひとみにとっては、日常という名の「檻」を壊してくれる甘美な誘惑に聞こえていた。

​気づけば、彼女は錦糸町駅の改札を出ていた。

北口のロータリー。

家路を急ぐサラリーマンや買い物客が交錯する中、あの安っぽい煙草の匂いが漂ってくる。

​「……遅かったな」

​不意に背後から、鉄の枷のような力で腕を掴まれた。

朝の男だ。

蛍光灯の下で見る男の顔は、想像以上に無機質で、欲望だけを煮詰めたような濁った瞳をしていた。

ひとみが何かを言いかける前に、男は彼女の身体を自分の脇に引き寄せ、強引に歩き出させた。

​「あ……待って、どこへ……」

「黙ってついてこい。お前の居場所は、もう決まってんだよ」

​男の大きな掌が、ひとみの腰を乱暴に抱きかかえる。

傍目には連れ添う男女に見えるだろうが、ひとみの手首に食い込む指の強さは、それが完全な「連行」であることを告げていた。

人混みを抜け、ネオンの光が毒々しく光る路地裏へ。

立ち並ぶホテルの看板を見上げながら、ひとみは自慢の脚が震えるのを感じていた。

​これから始まるのは、加納や佐藤のような「手加減」のある遊びではない。

一人の男の所有物として、徹底的に暴かれる夜。

​(私、どうなっちゃうの……)

​ホテルの自動ドアが開く。

その無機質な電子音は、ひとみが人間としての尊厳を捨てる、最後のアラートのようだった。
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